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第二章 四條翔 1

 翌朝、涼正は体の所々に鈍い痛みを感じ目を覚ました。視界一杯に映ったのは白い天井で、視線を下に下ろすと見慣れた机や本棚がある。  ベッドサイドに置かれたデジタル式の時計を見ると、九時丁度の表示。朝食はなんだろうかと、ぼんやり考えていた涼正の腹がクゥ、と情けない音をだした。  ――そう言えば、昨日夕食は食べたのか?  ベッドから起き上がりながら、涼正は今更な疑問に首を傾げる。昨日、家に帰って来てからの記憶がどうにも曖昧だ。  それに、今朝の夢は妙に生々しかった気がしてならない。  ――本当に夢だったのだろうか。  そんな疑問がぐるぐると頭の中を回り、涼正はソッと自身の身体を見下ろした。  着替えた記憶はないが、服はいつも就寝時に着ている紺の寝間着を身に付けていて、その下の尻に敷いているベッドのシーツも特に汚れている様子はなく、真っ白い生地がカーテンの隙間から差し込む朝日を反射していた。  ――……夢、だよな?  あの情交は夢の一言で終わらせるにはあまりにもリアルで。痕跡が一つも残っていないのが、かえって涼正の不安を煽った。  ――……考えるな、忘れろ。  夢だと自身に言い聞かせたのは、涼正なりに自身のテリトリーを守ろうとする防衛本能のあらわれだったのかもしれない。とにかく、これ以上考えてもドツボにはまるだけだと思考を切り換えた涼正は気分転換をするようにカーテンを両手で開いて、室内に朝日を迎え入れた。  窓一枚隔てた向こう側は、冬であるというのにカラリと晴れた青空で、道路を挟んで向かい側では女性がせっせと洗濯物を干している。  吸い込まれるほどに澄んだ空色に惹き付けられるまま窓を開けると、冷たいが春の訪れを予期させるような穏やかな風が室内に吹き込み、涼正の頬や髪を撫でていく。  スウッと、胸一杯に新鮮な酸素を取り込むと、少し気分も落ち着いた。  これなら、鷹斗や政臣と顔を合わせても流石にいつも通りに、とはいかなくても、避けるようなことはしなくてすみそうだ。  ――……さてと、行くかな。  身体に残る鈍い痛みや今朝の夢が涼正の足を重くさせるのは事実だが、涼正はそれを振り切るように歩き出すとそのまま振り返らずに自室を出て、扉を閉めた。  廊下に出ると、途端に足元から寒さが這い上がってきて、涼正は寝間着越しに腕を擦りながらブルリと身体を震わせた。外は晴れているが、室内の、それも日の差さない部分はやはり冬らしく寒いままだ。  冷たい廊下を歩く涼正の足音に紛れるように、リビングの方で物音がした。恐らく、この時間帯から起きているとなると十中八九、政臣の方だろう。  リビングにいる人物のことを考えると涼正の足が止まりかけるのだが、所詮自分の夢の話であって、政臣はまったく知らないし、意識し過ぎると返って訝しく思われるだけである。  ――……普通にしないと。  涼正は短く息を吐き出し、覚悟を決めるとその足をリビングへと向けた。  数メートル、数十センチ、数センチ。どんどんと縮まるリビングまでの距離に比例して涼正の心拍数も上がっていく。リビングの扉に手をかけた時には、涼正は口から心臓が飛び出そうな程緊張していた。  握る取っ手にグッと力を込めると、あっさりと扉は開いた。  日の差さない廊下と違い、さんさんと降り注ぐ朝日をたっぷりと室内に取り込む大窓のあるリビングは驚く程明るかった。  明るく、白を基調とし清潔感の漂うキッチンには涼正の予想通り政臣の姿がある。  声をかけようか、かけまいか。悩んだ挙げ句、涼正は前者をとった。 「……あ、その……おはよう」 「ん? あぁ、おはよう」  涼正はぎこちないものだったのに対して、政臣は至っていつも通りで、短く返事をした後は直ぐに朝食の調理に戻ってしまう。  涼正は政臣に変に思われなかったことにほっとすると同時に、少しばかり落胆している自身に気付き、動揺した。  これでは、まるで夢だったことを残念に思っているみたいではないか。  ――違う!! そうじゃない、俺は……。  先程、考えないと決めたのに、もう早々に揺らいでいた。夢であってほしいのに、いざ夢だとわかると僅かにでも落胆している自身がいて、でもそれも認めたくない。  涼正は、そんな何もかもが滅茶苦茶な自身が嫌で仕方がなかった。 「父さん、コーヒーはいるか?」 「っ!! ……あ、あぁ、もらうよ」  唐突にかけられた政臣の声に、涼正は肩を跳ねさせた。 しかし、涼正の大袈裟な反応に政臣は特に気にした様子もなく、「わかった」とだけ口にしてキッチンの奥へと引っ込んだ。  暫くして、コーヒーの入っているであろうマグカップ二つを手にした政臣が涼正の前まで歩いてきて、足を止めた。 「ほら、きちんと座って飲め」 「……あ、あぁ、そうだな」  熱いほどのマグカップを政臣から受け取ると、促されるまま涼正はリビングの椅子へと腰掛けた。対面にはそれがさも当然のように政臣が腰掛け、長い足を組み新聞紙を片手にまだ熱いコーヒーをゆっくり口に運んでいる。  政臣は元々口数が多い方ではないため、涼正が喋らない今、リビングは実に静かで、新聞をめくる微かな音がやけに大きく聞こえた。  一枚、また一枚と政臣が新聞を捲り、最後の一面になった所で、紙面に視線を落としながら口を開いた。 「どうかしたのか? 顔色が悪い」 「えっ? あ、あぁ、……大丈夫だ。ただ、その……少し体が痛むだけでな」  半分は本当で、もう半分は嘘だが、涼正は「俺も歳かな」と冗談っぽく続けて誤魔化し、コーヒーを啜った。  黒い液体は、涼正の内心をそのまま写し取ったように澄んでいるようで、底が見えない。いつもより苦く感じるそれを、時間をかけて飲み下し視線を上げた涼正は政臣がじっとこちらを見ているのに気が付いた。 「ん、……どうした?」 「いや、昨日のこと覚えてないのかと思ってな?」 「っ!?」  政臣の問い掛けに、涼正の体が面白いくらいに跳ね、視線が落ちた。  手の中のマグカップからコーヒーが数滴こぼれ、白いテーブルクロスに黒の染みをジワリと滲ませる。それをジッと見詰め、意を決したように顔を上げた涼正は口を開いた。 「昨日、って……何かあったのか?」  口にすると、やけに短い言葉だった。  知りたいのに、知りたくない。そんな矛盾した気持ちを抱えながら答えを待つ涼正を政臣の黒く、底の見えない瞳が見詰める。 「……あぁ。父さん、逆上せて風呂場で倒れただろう」 「えっ、……そうなのか?」  思いもよらない答えに涼正は口を開け、固まった。  皿のように丸く見開かれた涼正の瞳は言外に〝嘘だろう?〟と問いかけているが、話し終えたとばかりに紙面に視線を移した政臣が答えるはずもない。  ――……それじゃあ、アレは本当に夢……。だとしたら、俺はなんて夢を……。  あれほど知りたがっていた真相を知ってひと安心出来るかと思ったのに。安心するどころか自分の夢の内容に落ち込み、それが深層意識なのかと考えると涼正は自己嫌悪に陥り、自分を罵りたくなる。  端から見ても落ち込んでいるとわかる涼正の丸まった背を、ポンと手が気安く叩いたかと思うと涼正が力なく握っていたマグカップをさらっていった。  ひょいっ、と取り上げられるマグカップに唖然とする暇もなく、政臣よりも野性味の強い茶色の瞳が涼正の目の前に現れる。 「すげぇ驚いたんだぜ。大きな音がしたと思ったら、父さん倒れてるしさ」 「た、鷹斗。……おはよう」 「ん、おはよ」  涼正が突然現れた次男に驚きつつかけた声に鷹斗は短く返す。そうして、奪ったコーヒーをマイペースに啜りながら、他にも場所があるだろうにわざわざ涼正の隣に腰を下ろした。  今朝の夢の事もあり、手を伸ばせば触れられるほど近い距離に鷹斗の存在があると思うと涼正の体が少し強張り、無意識的に逃げそうになった。  一瞬、何か言いたそうな鷹斗の瞳が涼正を見詰めたのだが、自分の事で精一杯な涼正は気付くことがない。 「なぁ、政臣。もしかして、俺の体が痛いのも、朝起きたら寝間着を着ていたのも……そのせいなのか?」 「ああ、倒れた時にあちこちぶつけたんだろう」  政臣が目を通し終えた新聞紙を几帳面に畳み席を立ちながら淡々と告げた。 そしてそのまま、またキッチンの方へと引っ込んでしまう。その後ろ姿を見送る涼正だったが、隣で鷹斗が立ち上がる気配に視線を移す。  涼正を見下ろす鷹斗が口許にうっすらと笑みを浮かべ、政臣の話を引き継ぐような形で口を開く。 「で、寝間着はあのまま父さんが起きんの待ってたら風邪ひいちまうから着せただけ」 「そうだったのか。……すまないな、迷惑をかけて」  まだ少しばかり納得がいかない部分もあるが、自身に記憶がない上に二人がこう言っているのだから恐らく事実なのだろう。それ以上追及するのを諦めた涼正は再び視線を下に向け、視界に入った先程の染みを見詰めた。  白のテーブルクロスについた黒い染みは目立ち、異質だ。洗い、染み抜きをすれば限り無く白に近付くのだろうが、完全には消えて無くならない。  涼正の胸の中に落とされた疑問と言う名の染みも、それと同じだ。二人の口から真相を告げられて尚、うっすらと。しかし確実に異質な存在として、涼正の胸の中にある。 「まぁ、風邪ひかれるよりはマシだから気にすんなよ。なぁ、兄貴?」  胸の中の違和感を話すことも出来ず押し黙る涼正が落ち込んでいると勘違いしたらしい鷹斗が、慰めるように涼正の肩を軽く叩き、大きめの声で兄の政臣に同意を求めた。声を大きくしたのが功を奏したか、キッチンから顔を覗かせた政臣が「あぁ」と短く答え、頭を縦に振った。  しかし、その顔には〝くだらないことで呼ぶな〟とでも言いたげな表情が浮かんでいる。  鷹斗も兄の機嫌を損ねてはならないと思ったようで、大人しく席につき、それを見計らっていたかのように政臣がキッチンから朝食を運んできた。  あっという間にテーブルの上が食べ物の乗った皿で一杯になり、政臣が最後の一皿を置き席についた所で涼正は考える事をやめにして、今となっては久しくなってしまった家族全員での食事を始めた。

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