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第二章 2
政臣がいつの間にかつけたテレビから流れる今日のニュースをBGMに優雅、とは言えないが少なくともニュースで次々に伝えられる不穏な出来事とは無関係、かつ穏やかに家族で朝食を摂り、テーブルの上の食べ物が半分ほど片付いた頃だった。
ハムエッグをフォークで切り分けていた鷹斗が「あっ」と唐突に口を開いた。
「俺、明日から一週間くらい出掛けるから」
「え、突然どうしたんだ? 旅行か何かか?」
本当に唐突な申告に、涼正は同じ様にハムエッグを切り分け、口許に運ぶ途中だったフォークを危うく取り落としそうになりながら尋ねた。
一口大に切り分けたハムエッグを口の中に放り込み、十分に咀嚼し喉を鳴らし呑み込んだ後、鷹斗が頷いた。
「ん、そう。先輩が海外に行くから、その前に国内を回りたいってさ。俺は遠慮したんだけど、一緒にいく予定だったヤツが急に無理になって。でも予約入れた後だったし、キャンセルするわけにもいかないから、代わりに俺が行くことになった」
いつになく饒舌な鷹斗だったが、その顔には〝渋々〟といった苦いものが滲んでいて、それを裏付けるように鷹斗の目の前の皿に残った人参のサラダが乱暴にフォークに突き刺される。
人付き合いや上下の付き合いが全てと言うわけではないが、人間にとってそういったものが必要であることを少しばかり知っていた涼正は、鷹斗にとっていい機会だとばかりに笑みを浮かべた。
「そうか、楽しんでこいよ」
「あぁ」
そう答えた鷹斗だったが、小声で「期待はしてないけど」と付け加えるあたり、やはり乗り気ではないようだ。
不機嫌そうにフォークで突き刺してはサラダを口に運び、黙々と皿の中身を減らしていく鷹斗の様子は少しばかり心配だが、彼も成人した一人の男だ。自身の気持ちの落としどころも知っているだろうと、涼正は一先ずはそっとしておこうと決め、静かに食事をし、時折テレビの方へ鋭い瞳を向ける政臣に向かって話を振った。
「それじゃあ、暫くは俺と政臣だけになる――」
「俺も、一週間家を空ける」
遮るように聞こえた言葉に、涼正は目を瞬かせた。目の前の政臣は何事もなかったかのようにパンを千切り、薄く開いた口へと運んでいる。
涼正は聞き間違いではないかと、手に持ったフォークを置いた。
「政臣もなのか?」
「あぁ、クライアントが今九州にいて、事情でこちらに戻って来れないらしい。だから、此方から会いに行くことになった」
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
政臣の口から詳しい事情を聞かされた涼正は、テーブルの上に置いたフォークを握り締めたまま口を閉ざし、ややあってから「そうか。気を付けて行ってこいよ」と口にするとモソモソと食事を再開した。
「あぁ」と政臣の短い返事が聞こえたが、今、口を開くと違う言葉が出てしまいそうだった涼正はハムエッグを口の中に突っ込むことで堪えた。
ついさっきまで美味しく感じていたハムエッグも、なんだか味気無い。噛むのも億劫に感じたが、口に入れた手前吐き出すことも出来ず、涼正は惰性的にそれを咀嚼し呑み込んだ。
そして、「ごちそうさま、美味かったよ」と言い残し、政臣の返事を待たぬままリビングから逃げるように出た。
暖かかったリビングとは違い、廊下は寒く感じる上、いやに部屋までの距離が長い。涼正の足取りはリビングに着く前とは違う理由で重くなっていた。
――……一週間、一人か。
涼正は政臣や鷹斗を育てはじめてから今に到るまで、滅多に一人になることはなかった。中高の修学旅行や、友人とのプチ旅行で鷹斗や政臣が二、三日家を空けることもあったにはあった。が、必ずどちらかが残っていたし、期間も短かった。
たまには涼正も一人になる時間が欲しいと思っていたが、実際訪れると嬉しい気持ちよりも寂しい気持ちの方が強い。
こんなことではいけないと頭ではわかっているのだが、涼正の心が追い付いていなかった。
――二人が自立した時の予行練習、と思えばいいんだろうが。……やっぱり、寂しいもんだな。
たった一週間離れるだけでここまで寂しいなら、一年、いやそれ以上長い期間離れることになってしまった時はどうなってしまうのだろう。
徐々にだが慣れていくのか、それとも慣れないまま引き摺るのか。涼正にもわからなかった。
リビングから自室までの距離は近いはずなのに、それを結構な時間をかけて歩き、涼正は部屋の前まで辿り着いた。
ドアノブに手をかけたところで、これでは駄目だと頭を横に振った涼正は、部屋に入るのをやめ、バスルームへと向かうことにした。洗濯物を干す次いでに、冷たい空気に当たりたくなったのだ。
それに、息子達が家を空ける程度で寂しがって部屋に籠るような父親でありたくなかったのだ。自室からバスールームへは目と鼻の先ほどの距離で。そうであるので、ものの数十秒で着いた涼正は、扉を開け中に入っていくと洗濯物のつまったカゴを持ち小さな中庭へと向かった。
そうして、その日一日沈みそうになる気持ちを誤魔化すように身体を動かし、家のことを積極的にして過ごしたのだった。
その二日後、涼正は寂しいと思いながらも、支障なく生活していた。
笑顔、とは呼べない笑みをどうにか浮かべ二人を送り出したのは昨日の事。
二人がいなくなった家はガランとしていて、暫くは慣れなかったが人間は結構図太く出来ているようで、例に洩れない涼正も一日経てば完璧にとは言えないが随分慣れてしまっていた。それに、鷹斗も政臣もことある毎に涼正にメールや電話をしてくることもあって、なんだか一人になったような感じがしない。
今日も涼正は自分で作った、少し不格好な丸パンにご飯。肉野菜炒め、味噌汁といったちぐはぐな朝食を摂ると、いつもよりも少し早く仕事に向かった。
駐車場に車を停め、園に向かって歩いている最中にスッと背筋の伸び、日に焼けた健康的な肌の若い男――武藤に鉢合わせした涼正は、その肩をポンと叩いて口を開いた。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
驚いて振り返った武藤だったが、すぐにその顔に人懐こい笑みが浮かんだ。確か、武藤は今年二十八になると聞いたのだが。しかし、柴犬を彷彿させる黒々とした瞳が、武藤を実年齢より五歳程若くみせている。
涼正の隣に並び歩く武藤が、ちらりと視線を寄越し「いつも、涼正さんは早いですね」と続けた。
「まあ、ね。ほら、歳だから自然と起きるのが早くなってしまって」
これは冗談でもなく、本当の事だった。若い頃は涼正も早起きが苦手だったが、今は時計のアラームに叩き起こされる前に自然と目が覚める。しかし、そんなことを知らない武藤には冗談に聞こえたらしい。
「またまた、涼正さんまだ若いでしょう?」
「いや、武藤くんほど若くはないよ」
涼正は苦笑い混じりに否定した。涼正の世辞ではなく本心からの言葉に武藤は照れたように笑いながらも、首を横に振る。
「いやぁ、俺ももう三十路間近ですから色々と身体が……」
涼正の目の前の彼は体調も良さそうで、身体に問題があるとは思えないのだが、武藤の言った通り人には色々とあるのだろう。
涼正は「そうか」と苦笑い混じりに呟くだけにとどめた。
そうして、前方にひまわり園の門が見え始めた頃。
「ん?」
「あれ?」
武藤と涼正は見慣れない、しかも保育園には不似合いの出で立ちをした男が閉められた門の前で園内を覗き込むようにして見ているのに気付き、同じタイミングで足を止めた。
その男は、顔を半分隠すような大きなサングラスを身に付け、仕立ての良さそうなジャケットを纏っていて、その下のスラックスでさえ一目で高級とわかるようなものだった。
時折、袖からチラリとのぞく腕時計は光があたる度にチカチカと輝いている。何もかも一流のものに身を包んだ男は、この場所ではかなり異質で涼正に一瞬で警戒を抱(いだ)かせた。
――……警察に、通報するべきか?
そう考えた涼正の手がコートのポケットから携帯を取り出す前に男が涼正達の方に気付いてしまった。
「……君達は、ここの関係者かい?」
サングラスに顔半分覆われたその下の形のいい唇が滑らかに言葉を紡いだ。
涼正達の方に歩み寄ってきた男は涼正よりも背が頭一つ分高く、百八十センチメートル以上はありそうだ。近付かれると威圧感があり、涼正は怯みそうになる。しかし、なんとか踏み留まり、自分を奮いたたせると男を真っ正面から見据え、口を開いた。
「えぇ、そうですが」
口調こそ丁寧なものの、涼正の瞳は明らかに好意的ではない。しかし、男は特に気にした様子もなく、本題を切り出した。
「そうか、なら丁度よかった。ここの園長に取り次ぎを願たいんだが、頼めるかな?」
口調こそ柔らかいものの、男の言葉には絶対的な強制力があり、人を従わせることに慣れているような印象を抱かせ、涼正は益々警戒を強める。
それに、目的が自分だと言われても涼正はこんな怪しい人物と関わったことなどないし、危ないことに首を突っ込んだことも、心当たりもなかった。
涼正は内心で首を傾げながら怪しむような声で告げる。
「私が園長です。何かご用件でも?」
涼正の言葉に男が「へぇ」と小さな声を上げ、驚いたようだった。
「君が? 随分と若いね、歳は幾つなんだい?」
頭から爪先まで。男の値踏みするような視線が、涼正の全身を這うのに腹立たしさを覚えながら答えた。
「四十三ですが」
涼正の声は尖りきっていて、向けている視線も先程から変わりなく冷たい、否友好的なものなのに。
「私より三つ下か」
そう言った男にめげた気配はなく。寧ろ、何が楽しいのか口許に笑みすら浮かべている。
「それが、何か?」
男の言い方と表情に腹が立った涼正は苛立ちをあえて隠さず、言葉にのせた。人の好き嫌いは激しくない方だと思っていた涼正だったが、目の前の男に限ってそれは当てはまらなかったらしい。兎に角、目の前の存在自体に涼正の神経は逆撫でられていた。
早く、話を終わらせたい。そんな思いからか、男を睨む涼正の視線に険が増す。
「気に障ったのなら謝るよ。すまない」
ようやくやり過ぎたとわかったのか、男は涼正に向かって素直に頭を下げた。男も本気で涼正を怒らせたいわけではないらしい。
目の前の男のが嫌いなのは変わらない。しかし、取り敢えず話くらいは聞くのが大人の対応だろう。涼正は「いえ、気にしてませんので」と能面のような表情で告げた後、単刀直入に尋ねた。
「それで、ご用件は?」
「ここではちょっと話せない。君、すまないが少し出られるかい?」
男は困ったような口調で言い、辺りに視線を巡らせる。
顔を隠しているあたり、人目か何かを気にしているようにもみえるのだが如何せん出で立ちや言動、何もかもが怪しく見え、涼正は素直について行こうという気になれない。
「いや、これから仕事が――」
「涼正さん、こっちは大丈夫ですから、行ってきて下さい」
当然、断るつもりで口を開いたのだが思わぬ所からの助け船に断るといった道を断たれてしまった。
唖然とする涼正を置いて、男は武藤に笑みを向ける。
「ありがとう、君。では、彼 を少し借りるよ」
「あ、はい」
〝彼〟と呼ばれた時には、涼正は男に腕を掴まれていて、武藤の返事を耳にする頃には有無を言わさぬ力でひまわり園とは反対方向に歩かせられていた。
「ちょっと、待――」
制止の声を上げもがくのだが、男の腕は常日頃鍛えているのか涼正の力でもビクともしない。
それどころか、男に「いいから」と、更に強い力で引っ張られ前につんのめりそうになった。
抵抗むなしく辿り着いた先。駐車場に涼正の車とは正反対の、真っ赤なフェラーリが停められていた。
磨かれたボディは朝日を浴びて艶やかな輝きを放って美しいが、無理矢理連れてこられた涼正にとっては忌々しいものでしかない。
「……」
不機嫌な表情を隠すこともなく出し、押し黙る涼正の様子に苦笑いを浮かべた男がフェラーリの助手席側へと回りドアを開く。
「さぁ、乗って?」
一瞬、逃げてやろうと考えた涼正だったが、それではこの男に負けたような気がしてやめた。
覚悟を決めた涼正は息を吐き出し「……お邪魔します」と素っ気なく言うとフェラーリの助手席へと乗り込み、男がドアを閉めるのを待たずに自分で勢いよく閉めてやった。
少しすると、隣に男が乗り込む気配がして、フェラーリのエンジンがかかった。
静かな車内は居心地が悪く、ゆっくりと流れはじめた窓の外をムッとした表情で眺めていた涼正だったがつい疑問が口をついた。
「何処に――」
「秘密だよ」
〝 行くんだ?〟と尋ねるつもりだったのに、その言葉は男の声に遮られてしまった。
ハンドルを握る男は相変わらずサングラスをしていて表情が見えない。が、その唇は端の部分がクッと持ち上がり機嫌が良さそうで。またしても、涼正は腹が立った。
その後、目的の場所に着くまで男に何を尋ねられても涼正が口を開かなかったのは言うまでもない。
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