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第八章 2

「ハァァ、今日は一段とすごかったですね……。きっと涼正さんが戻ってきたのが余程嬉しかったんでしょうね」  最後の一人を見送った後。武藤は疲れを吐き出すように大きく溜め息をつきながら、同じく隣で園児を見送っていた涼正に話を振った。涼正の予感通り、といっていいのかはわからないが。確かに、今日の園児達の涼正への甘え方は半端ではなかった。  ことある毎に囲まれ、抱っこをせがまれたり。また、飛び付いてきてきたりと大忙しだったのだ。 「アハハ、そう言ってもらえて保育士冥利に尽きるよ」  涼正は、そう言って満足そうに笑う。身体は疲れていたが、忙しい間は鷹斗と政臣への気持ちを考えずにすみ、穏やかでいられた。 「本当に涼正さん、皆の人気者ですからね」 「そういう武藤君だって、好かれているだろう?」  今さっきだって、涼正と同じ様に武藤は園児達に囲まれて揉まれていたのを涼正は見ていた。やはり、武藤が人がよいのを子供達も無意識の内に察しているのだろう。照れたように笑う武藤は幼く、可愛らしく涼正の瞳に映った。 「え、まぁ、そうですね。でも、涼正さんの人気には負けますって。涼正さんが休みの間も〝りょうせーせんせぇは?〟って何度も聞かれたくらいですから」  思い出すように涼正の居なかった間の出来事を武藤に告げられ、涼正はすっかりと暗くなった〝ひまわり園〟内から外を見詰めながら微苦笑する。 「それは……あの子達には悪いことをしたね」 「そう思うんでしたら、沢山遊んであげてください。きっと喜びます」  「そうだね、そうするよ」と、素直に頷く涼正の顔は、自室で考え事をしていた時よりもずっと明るかった。  さて、と一息つき仕事を再開させようとした涼正だったが、「あ!」と何かを思い出したように声を上げた隣の武藤に反応し視線がそちらへと動く。 「涼正さん、この後暇ですか?」 「ん? どうかしたのかい?」  唐突な武藤の問いに、涼正は首を傾げた。雑務や書類仕事が溜まっているが、スタッフが優秀なお蔭か手こずるほどの量ではなかった筈だ。恐らく、半日もあれば片付くだろう。 「いや、飲みに誘おうと思ったんです。ほら、復帰祝いに」  続けて「どうですか?」とでも言うように、人懐っこい笑みを武藤に向けられ、涼正は少し考え。申し訳なさそうな表情をして、頭を横に振った。 「あー、気持ちは嬉しいけど病み上がりだから遠慮しておくよ。また誘ってくれると嬉しい」  病み上がり、と言うのは勿論嘘だ。〝体調を崩して休んでいた〟と鷹斗と政臣によって連絡を入れてあったものを利用したのだが、通用するだろうか、と内心不安に思っていた涼正だったが。「そうですか。まぁ、ぶり返しちゃったら元も子もないですもんね。じゃあ、また誘いますんで」と武藤があっさりと引いてくれたので、武藤に申し訳なく思いながらも涼正はホッと胸を撫で下ろした。 「ありがとう。あ、戸締まりは俺がしておくからもう上がってくれていいよ」 「じゃあ、後よろしく御願いします。それじゃあ、涼正さん、お先に失礼します」 「うん、また明日よろしく」  礼儀正しく頭を下げ、足取りも軽やかに去っていく武藤の姿を見えなくなるまで見送った涼正は大きく伸びをする。  元気な園児達の相手をしていたせいか、数日部屋の中に籠りっぱなしだった涼正の身体はあちこち悲鳴を上げていた。  グッ、グッ、と身体を伸ばし、解しながら涼正は一人戸締まりに向かった。  暗い園内を懐中電灯片手に戸締まりを終えた涼正が、疲れはてた様子で園長室の来客用ソファに身を投げ出したのは時計の針が午前一時を過ぎた辺りだった。  仰向けに寝転び、室内灯の明かりをぼんやりと見詰めながら涼正は大きな溜め息を溢した。 「ハァァ、取り敢えず……暫くはここで寝泊まりするしかないよな……」  早朝、家を出た時から決めていたことだった。  家に戻れば生活をする上で必ず鷹斗と、政臣と顔を合わせなければならない。毎日二人の顔を見ながら自分の気持ちを抑えることなど出来ない、と判断した上での結論だった。  着の身着のままこちらに来てしまったから下着や服の換えもないが、少し車を走らせればコンビニだって服屋だってある。それに風呂も、確か少し歩くが古びた銭湯が近場にあった筈だ。涼正は頭の中でこれからの生活を考えながら、ゴロリとソファの上で寝返りを打つ。  すると、ふと事務用机の上の固定電話が目に入った。涼正はのそり、と重たい体を持ち上げると固定電話に近付き履歴のボタンを押した。  ――これじゃないし……これでもない……確か……。 「……あった」  涼正は、小さく声を上げた。十件目にしてようやくディスプレイに表示されたのは登録もされてない携帯の番号だった。  涼正の指が、発信のボタンの上で止まる。  ――……電話して、確かめないといけない。  そうは思うものの、中々ボタンを押すまでに至らない。出来れば、このまま一生関わりたくなどないのだが、涼正はどうしてもその人物に聞きたいことがあった。  ――でも、こんな時間にかけるなんて……非常識だよな。また明日に……。  そう思い、涼正が固定電話から離れようとした時だった。プルルルル、と涼正の目の前の固定電話が着信を報せる音を鳴らす。ディスプレイを覗き番号を確認した涼正は驚き、目を瞬かせた。  怖じ気付きそうになる心を奮い起たせ、震える指で受話器をとる。ディスプレイに表示されていたのは、あの四條の番号だった。

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