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第五章 瓦解 1

「……ん」  気が付くと、涼正の身体は応接用のソファに横たえられていた。窓の外はまだ暗く、長い時間意識を飛ばしていたわけではないらしい。  いつの間にか服も着せられていて、四條に犯された事など嘘の様だったが、腰に走る鈍い痛みが、これが現実だと訴えかけてくる。  ――……最低だ。  四條に犯されたこと自体最低なのだが、涼正はそれで感じてしまったことが何よりも許せなかった。  後悔に苛まれ、ソファの上で歯噛みしている涼正の顔にフッと影が落ちた。 「お目覚めかな、お姫様?」 「ッ!!」  よりによって、今一番見たくない人物の顔が目の前に現れた涼正は、痛む腰を無視してソファから転げ落ちるようにして距離をとった。  そんな涼正の様子を四條は面白がるような瞳で見詰める。 「そこまで大袈裟な反応をされると、流石の私でも傷付くな。まぁ、君が望むなら話は別だけれど……取り合えず、今すぐに取って食いはしないから落ち着きなさい」  宥めるような四條の声が涼正には腹立たしかった。  ――先程、急に自分を襲ったくせに。一体どの口がそんな事を言うのだろうか?  と、口に出しそうになるもグッと堪えた涼正は「……誰が望むか」と吐き捨てるように言った。しかし、険をまったく隠さない涼正に対して、四條はただ悠然と笑う。 「そうかい、それは残念だ」  そう言うのに、ちっとも残念そうに見えない四條を涼正は睨み付けた。気を抜き、隙を見せたが最後。いたぶるようにじわじわと奈落の底に連れていかれるような恐怖を涼正は本能的に感じていたからだ。  冷や汗が涼正の背筋を伝い落ちる。 「写真、キチンと消してくれないか」  震える手を握り締めて出した涼正の声は強張ったものだった。  ――……嫌だと言われたらどうしようか?  最悪の場合殴って奪うことも考えていた涼正だったが、四條にあっさりと「あぁ、約束は果たしてもらったし構わないよ」と言われ拍子抜けしながら、携帯を操作する四條を見詰めた。  音もなく、長い四條の指が携帯の画面上を動く。  静かな空間に、男が二人。先程、襲われたこともあってか、沈黙に耐えきれなくなった涼正が口を開いた。 「……どう、して……こんな事を?」  涼正にしたら一番尋ねたい事だった。四條にとって涼正は、この間出会ったばかりで。その前までは顔も知らないような存在だった筈だ。  唯一の接点といったら、付き合った女性が同じだっただけ。けれども、華やかな四條の事だ、女性関係が透子だけだったとは思えない。  であれば、涼正でなくとも候補は沢山いたはずだ。それなのに、何故四條は涼正を選んだのか?  涼正は、そこが知りたかった。  固唾を飲んで見守る中、四條が喉を鳴らして笑う気配がした。 「純粋な興味だよ。透子が好いていた君に興味があったんだ」 「……ッ」  四條からの答えを耳にした瞬間、涼正は怒りで目の前が真っ赤に染まった。  ――……そんなもののために、俺は……。  強張っていた筈の涼正の体が、今は怒りで震えた。グッと握った拳は指が白くなる程で、涼正の怒りが深いことをあらわしていた。  知っていて知らないフリをしているのか、それとも単純に気付いていないのか。  涼正の憶測だが、恐らく前者であろう四條は嘗めるような目付きで涼正を頭から爪先まで見回した。 「しかし、透子もスミにおけないな。こんなに君が可愛らしいとは思っていなかったよ」 「ふざけるなッ!! そんなことで……あ、あんな……」  思い出しただけで顔から火が出るような羞恥に襲われた涼正は、言葉を詰まらせた。  生々しい感触までもが甦りそうになり、涼正は慌てて頭を振る。  自身の事で手一杯だったこともあり、涼正は四條がすぐ側まで距離を詰めたのに気が付かなかった。 「でも、気持ちよかっただろう? 私とのセックス」 「――ッ!!」  気付いた時には、床にヘタり込んだままの涼正の顔を覗きこむように四條がしゃがんでいて。涼正は慌てて立ち上がろうとしたが、腰が痛い上に足に力が入らず再び床の上に尻をついた。 「あぁ、ほら。あまり無理すると腰が痛むだろう? 大人しく、ソファに腰掛けていなさい」  結局、距離をとるどころか抱えられソファにおろされてしまった涼正はあまりの情けなさに俯く。今すぐにでも四條から離れたいのに、それすら出来ない。  もどかしい思いを抱えたまま、涼正は足腰が少しでも回復するのを待つ。  沈黙を一分程続けたあたりで、時間を有効活用すべきだと判断したのか涼正が疑り深く尋ねた。 「…………、本当に写真は消したんだろうな?」 「ん? あぁ、そんなに気になるなら見るといい。見られて困るものは殆どないから」  四條の手から涼正に携帯が渡された。  飾り気のない、シルバーのスマホは四條に不似合いのように見えたが実によく馴染んでいた。  渡されたスマホと四條を暫く見比べていた涼正だったが、覚悟を決めたのか、やがてゆっくりと操作し始める。  そうして、たどたどしい手付きで画像フォルダを開くと、海外の透き通るような海の写真や幻想的な夕焼けの写真なんかが、ちらほらとあるだけで涼正が見せられたヌード写真はどこにも存在しなかった。  他のフォルダも念のために調べたが、やはりどこにも存在せず、涼正は四條へと無言で携帯を突き返した。  四條が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。 「わかってもらえたかな?」  涼正は自身の目で確認してもまだ納得がいかなかった。しかし、これ以上粘っても何かが出てくるわけでもないし、そろそろ四條と同じ空間にいることが限界だった涼正は渋々といった表情で「……あぁ」と短く答えた。  涼正の不満そうな表情を見ながら、四條は受け取った自身の携帯をジャケットにしまう。 「それでは、私はそろそろ失礼するよ。君もゆっくりと休むといいよ。あぁ、そうだ」  そのまま園長室の出入り口へ向かうと思われた四條だったが、思い出したように立ち止まると、何故か涼正の側まで歩み寄ってきた。  ――……忘れ物か何かか?  呑気な考えが浮かんだ涼正だったが、近付く四條の顔にすぐにそんな考えは吹き飛んだ。  阻止しようと涼正の手が四條の顔へと伸びるも、四條の方が一足早かった。  チュッ、と軽く響くリップ音。 「――ッ!!」  頬を掠めるように触れた柔らかな感触に涼正は声にならない声を上げた。四條を詰(なじ)ろうにも、口を開閉させるばかりで言葉にならない。  いまだに目を白黒させる涼正をソファの上に残し、今度こそ四條が園長室の出入り口へと歩いていく。  そして、扉を出る間際。  涼正にとって憎らしいほどの余裕を滲ませた笑みを四條は浮かべて「お休み。また、身体が疼いてどうしようもなくなったら連絡するといい。君なら相手をしても構わないよ」といらない誘いまで口にして出ていった。 「……っ、誰がするかッ!!」  四條の背中にぶつけるように出した言葉が室内に虚しく吸い込まれていく。  ボスッ、と八つ当たりにソファを殴ってみた涼正だったが気分は晴れないどころか、スプリングの部分にぶつけたらしく指の付け根が痛んだだけだった。  ――……疲れた。  四條という名の嵐が去ったとあって気が抜けた涼正の口から溢れた溜め息は重く、少し熱っぽく感じられた。四條に噛み付いていた時は怒りの方が勝っていたこともあって気にならなかったが、やはり身体がダルい。  涼正が背凭れに背を預け、ソファに深く身体を沈みこませた瞬間、後からドロリと四條の精液が溢れ、あまりの不快さに顔を顰めた。  ――……どうにか、しなきゃな……。  これからしなければならないことを考えると気が重い。 しかし、いつまでも放置するわけにもいかない涼正はテーブルに手をつきながら立ち上がった。  少し休んだこともあって、なんとか歩けるまでには回復したようで、涼正は物伝いに歩き何時もより何倍もの時間をかけ園長室を出る。  外は真っ暗で、すでに四條の姿も見えない。そのことに酷く安心しながら、涼正はゆっくりと駐車場まで歩いていった。  長い時間をかけ、漸く車のもとへと辿り着いた涼正は重たい身体を引き摺るようにしてBMWの運転席へ乗り込んだ。  弱くとも冬の冷たい夜風に晒されていたせいで、身体中が冷えきってしまっていた。  涼正はかじかんだ指でエンジンをかけ、暖房をつける。少し待って、送風口から暖かい風が出始めた頃、涼正は漸く肩の力を抜いた。  体から余計な力が抜けるとともにジワリと涙腺まで弛み、涼正は慌てて滲んだ涙を拭った。  今更ながらに恐怖が襲ってきて、手が震える。  ――……くそっ!!  いくら縛られていたからといって、何の抵抗も出来なかったどころか、最後には自分から「イカせてくれ」と頼んでしまった。  涼正は全てを振り払うように頭を振った。考えるなと、自身に言い聞かせ震えたままの手で無理矢理ハンドルを握る。  しっとりと指に吸い付くようなカバーの感触が、少しだけ涼正に冷静さを取り戻させてくれた。  車内で薄ぼんやりと光る時計に目を向けると、時刻は丁度日付が変わったところだ。今日を含め、後二日で息子達が戻ってくる。それまでにはいつも通りの涼正に戻っておかなければならない。  涼正は、深く息を吐き出すと真っ正面を見詰め車を静かに走らせ始めた。  短いようで長いのか。長いようで短いのか。涼正は一心に車を走らせ、気付いた頃にはBMWは車通りの多いバイパスを抜け明かりの疎らな都心外れの住宅街にたどり着いていた。  ここまでくれば、後は早かった。  ものの数分もかからぬ内に見慣れた我が家に辿り着いた涼正は、何時もより時間をかけて車を車庫に停め、運転席から降りた。  明かりのついていない家は寂しく感じられたが、今の涼正にとっては都合がいい。  真っ直ぐに庭を突っ切り、玄関に向かう。  そうして辿り着くなりに幾つかポケットを漁り、乱暴に鍵を取り出すと急いで開け室中へと飛び込んだ。途端、どっと疲れが押し寄せてきて涼正の身体がフラりと揺れる。  ――……っ、風呂に……。  急いで風呂に向かおうと頭では思っているのに、身体が言うことをきかず、足下から力が抜けていく。  こんな場所で倒れるのは不味いと思うのに、次第に近付く床の玄関マットを見詰めながら涼正の意識は遠退いていった。

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