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新人くん side.

やってしまった。 家に帰って自分のベッドに顔を埋めた瞬間、どっと後悔が押し寄せてきた。 あの夜から自分は店長の恋人。恋人。と洗脳のように繰り返し口にして、接し方を変えた。対恋人に。ただ本当の意味での恋人なんてできたことがなかった為、ネットや雑誌に頼りまくりでわりとベタなことしかていない。 過去の友人達には俺は遊び人のモテ男と認識されているから、今更恋人との付き合い方を聞けるわけもなく、とにかく毎日家まで送って行った。少しでも一緒に居たかったから。 それはある種の耐久レースのようなものだった。 手袋をする手を見て何度その手袋を脱がせて直接手を繋ぎたいと思ったことか。 頬と鼻を赤くする白い肌をこの手で温めてあげたいと願ったのは一度だけじゃない。 マンションに入っていく背中を抱き締めて「ほんとに帰っちゃうの?」なんて甘い台詞を吐く場面なんて数え切れないほど想像してきた。 肝心なところで強く出られない。 世間ではそれをヘタレと言うらしい。 「あー…」 背中に提げていた黒のリュックをズルズルとベッドの上から床に落とす。艶のあるネイビーに惹かれて買った薄めのダウンジャケットを寝転びながら脱ぎ捨てて、仰向けになった。 「なに、やってんだろう…」 大学進学を機に一人暮らしを初めて今年で4年目。見慣れた天井がやけに遠い。 息苦しさを感じて込み上げてきた咳をした。マフラーの所為か?と首を触るが、何の感触もなく触れたのはひやりと冷たい自分の肌。店長のところに忘れてきちゃったのか、とどこか他人事のように考えた。 こんな筈じゃなかった。 男の恋人も案外普通にイケるものだと思って欲しかった。悪くないな、と。 自分が望まなければ、こいつは手を出してこないし危険はない。有害ではないと信用して貰う為に、敢えて手は出さなかったのに。 もちろん勇気が出ないのも理由の一つにはあるが、それ以上に店長の気持ちを尊重したかった。 付き合ってる、と思っているのは俺だけ。分かってはいたが、少しの罪悪感に無理強いはしないと自分に誓ったのだ。 今度は店長が望むまで触れないように、と。 『……本社に…セクハラで訴えるとか…?』 だからあの一言はショックだった。 あの一件が店長を悩ませビクビクさせていたのかと思うと、目の前が真っ暗になって酷く落ち込んだ。 俺にとっては奇跡の一夜だったのに、店長にとってはそうじゃなかった。下手すると既に黒歴史に分類されているのかも知れない。 「てんちょう…」 シンとした部屋に響く何度呼んだか分からない名称。あの人の本名なら漢字まで書ける。でも呼ばない。呼べないんだ。 でもいつか呼び合える関係になりたいと思っていたのに…こんなんじゃ全然駄目だよ。 鼻の奥がツンとした。 見上げる天井がほんの少しボヤけていく。 「ごめんなさい…店長……」 ああ、頭が痛い。

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