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raspberryな恋人/大学生×チャラリーマン
「昨日、奥さんと子供、見た」
阿久津藤耶 の言葉に、手持ち無沙汰にクッションにじゃれついていた升野智弘 は目を丸くさせた。
目尻がちょっと下がった、さり気ない甘さをちらつかせる双眸が、テーブルの向かい側でじっと自分を見据える藤耶を写し出す。
「あ~そうなんだ」と、悪びれるでもなく、気まずそうにするでもなく、智弘はあっけらかんと言った。
「俺の家族ズ可愛かったでしょ?」
死んじゃえばいいのに、この人。
藤耶が智弘に出会ったのは先月のこと。
大学生の藤耶は全国チェーンの居酒屋でアルバイトをしている。
口数こそ少ないが挨拶の声はよく通るし、ぶっちゃけ愛想のない顔つきだがこまめに気が利くし、他人の悪口を言わない、裏表がない彼は「あっくん」という愛称で男女問わず親しまれていた。
「あっくん、六番テーブルって合コンでしょ? 濃度高くしてやろ~」
「待って、その余り食べたい! あーんっ」
「あっくん、これ、九番ね!」
慌ただしい厨房で料理を受け取り、藤耶は大股で熱気に包まれたフロアへと運ぶ。
「すみませ~ん」
フロアを移動中の藤耶を、呂律の回らない舌足らずな声と不躾な両腕が引き止めた。
振り返ると、一人の酔っ払いがテーブル席から身を乗り出していて。
店の前掛けエプロンをつけた藤耶の腰にしがみついていた。
「またかよ、升野」
会社帰りと思しき二人の連れが面倒くさそうに酔っ払いの升野智弘を藤耶から引き剥がす。
藤耶は、浅く礼をし、目的のテーブルに料理を運ぶと智弘のいる席へ速やかに戻った。
「ご注文でしょうか」
「あのね~から揚げがまだ来てないんだよね~」
「申し訳ありません、厨房に確認してきますので」
「あはは~うっそ~今から注文するの~」
智弘は潤んだ目の縁をラズベリー色に染めてとろんと藤耶を見上げた。
居酒屋で酔っ払いなど日常茶飯事、藤耶は表情一つ変えずにから揚げと飲み物のオーダーを再確認すると厨房へ戻った。
十分後。
「すみませ~ん」
……またあの客だろうか。
振り返らずとも舌足らずな呼びかけにそんな予感がし、振り返ると、的中。
危なっかしげに通路へ身を乗り出した智弘が手をひらひらさせて藤耶を呼んでいた。
「ご注文でしょうか」
「うんっ」
小学生のようにしっかりと頷き、箸や小皿を落とす勢いで、お品書きをばさりと広げる。
「これとこれとこれ!」
骨張った人差し指が不親切な速さでメニューの上を行き来した。
藤耶は把握できずに、頭を屈め、もう一度智弘に聞き返そうとした。
「すみません、皮付きポテトと、後は……」
ぐいっ
「あ~」
「升野、てめぇ~」
連れのサラリーマン二人がまたかとでもいう風に呆れ返る。
あまりにも急な出来事に、藤耶は、思わず硬直する。
いきなり引き寄せられて、唇に押しつけられた唇の感触を、しばし痛感する他なく……。
「えへへ」
顔を離した智弘はとろんと笑った。
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