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血迷いラプソディ-3
冷え冷えとした廊下。
消灯の時刻は当に過ぎて、薄闇の中に際立つ非常口のパネルの光。
細く開かれた保健室の扉の隙間から聞こえる聞き知った笑い声。
嘘だろ……。
俺は凍りついていた足を何とか職員用玄関へと進ませた。
足音を立てないよう、その場から速やかに逃げ去った。
「おはようございます、日向先生」
車から降り立った瞬間、後ろから声をかけられて振り向き、セダンから顔を覗かせている清見先生を目にして俺はギクリとした。
「どうかされましたか?」
あからさまに動揺した俺に清見先生は首を傾げる。
癖のないストレートの髪がさらりと靡いた。
色艶のいい肌に秀逸に整った容貌。
穏やかな声は爽やかな秋の朝によく似合う。
皺のないシャツに重ねたベストと上着が週間で同じ組合せになることはない。
俺なんか、いつもTシャツにパーカーかジャージを羽織っただけで、教頭先生に「もう少しマシな格好を……」と注意されることしばしばだ。
保護者が好みそうな清潔感を常時備えた彼は生徒からの人気も高い。
冷静な物腰で何事にも動じないその姿勢は俺にとっても憧れで、見習うことが多く、尊敬に値する教師だった。
昨日までは。
「い、いえ、別に。おはようございます」
まさか清見先生がショタ教師だったなんて未だに信じられない。
だが何度思い返しても保健室から聞こえた声は彼のものだったし、もう一方は確かに「清見先生」と相手を呼んでいた。
小学生に手を出すなんて即刻クビ……いや、クビどころじゃない、立派な犯罪だ、堂々と法で罰せられる。
凄まじくショックだ。
朝の職員室で向かい側のデスクに着く清見先生が他の教師と談笑しているのを見、俺はため息を噛み殺した。
「リイチ、今日元気なくね?」
休み時間、廊下を進んでいたら聞こえてきた声に俺はつい足を止めた。
視線を向ければ、昨日、保健室で清見先生とことに及んでいたもう一方の生徒、鈴宮理壱が窓際で友達に囲まれていた。
「どーかしたの? 何かあった?」
「んー……別に……何でもない」
ああ、あの元気で活発だった鈴宮が苦笑いを浮かべているじゃないか!
鈴宮は友達に何か告げると駆け足でトイレの方へ。
俺はその、まだ小さな守るべき背中を見送って眉根を寄せた。
どう考えても事態は深刻だ。
どうするべきか。
校長、いや、一先ず教頭先生に相談するか。
それとも清見先生本人に物申すか?
ただ、気がかりなのは。
事実が明るみに出ることで鈴宮に負担がかかるのではないかということ。
あの背中に多少のリスクを背負わせるのは大いに躊躇する。
本来ならばあってはならない事態なのだ。
しかしそのままにはしておけない。
ああ、どうしよう……。
考えあぐねる余り昼食も喉を通らなかった俺は昼休み、意味もなく校内をうろうろと歩き回っていた。
そんな時、またしても背中を屈めて一人廊下を歩く鈴宮を見つけて……。
「鈴宮!」
つい、守るべき小さな背中に声をかけていた。
誰もいない普通教室、校庭からは昼休みに遊び回る元気な生徒の笑い声。
俺は中央の席に鈴宮を着かせると、その前のイスに逆向きに腰を下ろして背もたれに両腕を引っ掛け、彼と向かい合う格好となった。
「日向先生……何だよ、話って?」
鈴宮は訝しそうに首を傾げる。
最近、髪を染めている生徒をちらほらと見かけるが、彼の髪は天然の極自然な淡い茶色だ。
今は頭上の蛍光灯を反射してさり気ない艶を帯びていた。
「えっと、そうだな、うん」
さて。
つい鈴宮を呼び止めてしまったが、一体、どう切り出したらいいものか。
「ええっと」
「?」
「ほら、あれだよ」
「え、何?」
「今日、天気いいよな」
「天気? うん、晴れてるけど? それがどーかした?」
「ほら、こういう日って、お前って、よく運動場にいなかったか?」
「あー……」
「大声上げてサッカーとか、鉄棒で競って逆上がりとか、してたよな? 連続逆上がりゲームだっけ?」
「誰が一番連続逆上がりできるかゲーム」
「ああ、そうそう、それだ。でも今日はお前、友達ともいないで、一人でいるんだな」
「……うん」
よしよし、我ながらそれとなしに本題に近づけていっているじゃないか、この調子で……。
「そういえば、いつもこっちの教室まで聞こえてくるお前の大声が今日は珍しくしなかったけど」
「……」
「具合でも悪いんじゃないかと思って」
鈴宮は明らかに表情を硬くして、返事をする。
「オレ……別にどこも悪くないよ」
しかし、改めて見てみると鈴宮は頬を赤くしていて本当に熱でもありそうな様子だった。
眼差しがどこか浮ついている感じもする。
先ほどから前屈みの姿勢で体も強張っているような……。
「お前、熱は測ったか?」
そう言って、俺は何とはなしに鈴宮の前髪に指先を潜らせ、その額に掌を押し当ててみたのだが。
次の瞬間、俺の手は思い切り振り払われた。
「……鈴宮」
無意識に及んだ反射的な行動だったのか。
鈴宮は自分自身の振舞に驚いたように目をぱちぱちさせて、困ったように俺を見、たどたどしく謝った。
「ごめん……なさい」
「鈴宮、お前」
「え?」
「昨日、清見先生と――」
清見先生。
そのワードを出した途端、鈴宮の小さな肩がビクリと震えた。
がたーんっ
目の前で倒れたイス。
翻った、小さな背中。
駆け足で教室を飛び出した鈴宮に俺は驚き、同時に、自分の失態を思い知らされた。
しまった、不用意に清見先生の名前を出すんじゃなかった。
もっと慎重に話を進めるべきだった。
ああ、俺って、単細胞の馬鹿野郎!
「鈴宮、待ってくれ!」
俺はすぐに鈴宮の後を追った。
学年で一番足の速い彼はもう廊下のあんな先へ……あ、男子トイレに入った……校内でこんなに走っているところを教頭先生に目撃されたらまた説教喰らうだろうな……ふん、別に職員室の片隅で長ったらしい説教を喰らったっていいさ。
今、鈴宮を放っておく方が俺にとって最大の痛手なんだ。
校舎の隅にある男子トイレに駆け込んだ俺は唯一閉じられたドアの前に立った。
「悪かった、鈴宮」
ドアの向こうで気配を殺している鈴宮に俺は話しかける。
「先生、お前を傷つけるつもりはなくて……ごめんな、ただ、気になって……」
歯切れの悪い台詞ばかり出てくる。
畜生、もっとまともな、ドラマみたいな言い回しとかできたらいいのに!
「……先生、オレさ」
ドアの向こうからぽつりと鈴宮の声が。
少し浮かばれた俺は一言一句聞き逃さないよう、耳をそばだてた。
「本当は……朝からずっと変なんだ。病気かもしんない」
「病気? じゃあ、やっぱり具合が悪いのか?」
「……ううん……そういうんじゃなくて……、……」
耳をそばだてていたにも関わらず、最後の台詞が聞き取れなかった。
聞き返そうとしたらカチャリとドアのロックを外す音が。
「鈴宮」
ドアが開かれたことに俺はとりあえずほっとした。
が、現れた鈴宮の手の位置を見て「んん?」と当惑した。
「何回も……チンコ大きくなっちゃうんだ」
「……」
「休み時間にこっそりオナニーしても、また……」
「……」
予想外の展開に俺はフリーズしてしまった。
教師にあるまじき反応丸出しだっただろう、だけど、こんな場合の対処法、心理学でも習っていない!
無様に何も言えないでいる俺を見上げていた鈴宮は、その二重の瞳に、じわりと涙を溜まらせた。
「びょ……病気かなぁ、やっぱり」
「鈴宮」
「し……死んじゃうのかなぁ、オレ」
とうとう鈴宮は泣き出してしまった。
校庭で派手に転んでも、痛い注射をされても、迷い込んできた野良猫に引っ掻かれても、無邪気に笑っていたあの元気な鈴宮が。
ああ、泣くなよ、鈴宮。
俺まで悲しくなってくるじゃないか。
俺は涙をぽろぽろ零す鈴宮に何か声をかけなければと口を開きかけた。
「でさぁ……」
「何だよ、それ」
近づいてくる足音と会話。
泣いていながらも鈴宮はいち早く反応した。
俺に再び背中を向けて個室に戻ろうとする。
「あっ」
俺は大慌てで鈴宮を追って――。
「あ、毛が生えてる」
「うっせー見んなよ、毛なしやろー」
「俺も生えてるもん」
ドアの向こうから高学年らしき男子生徒の間の抜けた会話が聞こえてくる。
慌てる余り鈴宮と一緒に個室に入ってしまった俺は、この妙な状況に一先ず呼吸を潜め、男子生徒が去るのをじっと待つことにした。
狭い個室で俺に背を向けている鈴宮も涙を押し殺して頑なに固まっている。
俺は泣いていた彼が不憫で小さな両肩を掴んでいた。
鈴宮は振り払うよな真似には至らず、ただ、固まっている。
ぺたぺたとシューズによる足音が遠ざかっていった。
「……行ったな」
ふぅ、と一息ついた俺に鈴宮は苦しげな声で言う。
「オレ、このままじゃ……あれだから……先に帰れよ、先生……」
とてもつらそうな様子の鈴宮に俺はちょっと身を乗り出した。
「そんなにきついのか、鈴宮――」
「あっ」
「えっ」
鈴宮が急に変な声を出したので俺はどきりとした。
いやいや、どきっとしてどうする、俺。
密かに動揺する俺を、鈴宮は、ぎこちない仕草で仰ぎ見た。
「手……」
「え?」
「手、どけろよぉ……」
涙ぐんだ瞳に赤く染まった頬。
昔、子供の頃に摘んで食べたグミの果実を思い出させる、瑞々しい唇がふるふると震えている。
鈴宮は両肩に置かれた俺の手に感じているのだ。
「す……鈴宮……」
動悸が競り上がってくる。
声が詰まりそうになる。
妙な緊迫感。
突如、胸に広がったこの衝動は何だ。
「せ……先生が……」
「え……?」
「先生が手伝おうか、お前の……オナニー……」
俺は何を言ってるんだ?
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