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キミガダイスキ!!-2

高比良毅史は校内において最も有名な生徒である。 迫力ある風貌は街中でも目を引く程で、他校にも名が知れており、教師にとっては要注意人物に相当する一見破天荒そうな少年だった。 爽は二年になって初めて毅史と同じクラスになった。 だが、爽は以前から毅史の存在を知っていた。 あちらこちらに蔓延る噂や冷やかしを抜きにして、直接的な関わりを持った事が一度だけあったのだ。 偶然の出来事で、爽は廊下に、毅史は上級生と思しき女子と二人きりで放課後の普通教室の中にいた。 半分程開かれていたドアの前を通り過ぎようとたら、突然乾ききった鋭い音が聞こえ、爽は足を止めたのだ。 教室の中は、女子の掌が毅史の頬にヒットした直後であり、ピリピリとした険悪な空気に包まれていて……。 『最悪、死ね!』 女子はヒステリックにそう言い放ち、呆気にとられていた爽には目もくれず、凄まじいスピードで廊下の奥へと走り去っていった。 死ね、と言われた毅史は、叩かれた頬を擦るでもなく、怒りに表情を歪めるでもなく、飄々とそこに突っ立っていた。 そんな彼と目が合った瞬間、爽も全速力でその場から逃げ去った。 苦しい胸の動悸は家に帰ってもちっとも治まらなかった。 毅史への関心は、その日をきっかけにして。 爽の意志とは裏腹に猛烈な勢いで育っていったのである。 二学期の始業式、当日に行われた席替えでこの位置になった。 爽の意識は失神寸前にまで上り詰めた。 それまで視線すら合わせないようにしていた彼にとって、毅史が毎日目の前にいるという事はえらく信じ難い状況だった。 喜んでいいのか、それさえ迷った程である。 やや強面の毅史に完全に怯えていると見られても仕方ないくらい、爽は過剰に意識してしまったのだ。 当の毅史は、授業中も休み時間も寝てばかりで、和気藹々とした触れ合いを持とうとする気配もなく、やはり一人飄々としていた。 爽の方も、数日が経過していくらか落ち着いた心拍数を刻むようにはなったが、決して慣れきったというわけではなかった……。 「……ん」 現代文の授業中、教科書の黙読に集中していた爽は思わずドキリとした。 教科書越しに慎重に前の席を窺ってみると、普段と違わない広い背中が視界に写った。 熟睡中の毅史がどうも寝言をこぼしたらしい。 彼の隣席の女子も聞き取ったようで、彼女は爽を顧みてクスクス笑った。 爽もぎこちなく笑い返したものの、火照った頬を見られないよう、教科書で顔半分を隠すのに必死であった。 うわぁ、高比良君の寝息聞いちゃった……。 爽は急上昇する体温に辟易し、今にも耳元で聞こえてきそうな心音に集中力を乱されて、密かに嘆息した。 本当、いっぱい寝る人だなぁ。 寝る子は育つって言うけれど、正しくその通りだ。 誰よりも広い背中、すごく長い足、大きな掌。 それら全部、僕と大違い。 何でこんなに逞しいんだろう、高比良君って。 終業ベルが鳴り響き、トロンとした目つきでいた爽は顔色を変えて毅史の背中から目線を外した。 「じゃあ、これで授業を終わる」 次は昼休みだ。 毅史は依然として机にうつ伏せたままであり、爽は周囲の喧騒に起きやしないかとハラハラしつつ、机の横に引っ掛けたトートバッグから持参のランチボックスを取り出した。 「爽ちゃん!」 爽は驚いた。 いつもなら先頭を競って食堂へと駆け出しているはずの新野がまだ教室に残っている。 遅めに教室を出た爽と食堂で落ち合って食事をとるのが普段の昼休みのパターンなのだが、今日はどうやら違うらしい。 新野は爽の席まで駆け寄ってくると、さも面目なさそうな顔つきで開口した。 「俺、今日図書館のカウンター番だった」 先日、ジャンケンで負けて嫌々図書委員になった新野は、大袈裟に肩を落として唇を尖らせた。 「そうなんだ」 「ごめんねぇ、だから一緒に食えないや」 別に大した問題ではなかった。 騒々しい食堂ではなく、久々にどこか違う場所でのんびり食べるのもいいかもしれない。 両手でランチボックスを抱いた爽が屋上にでも行ってみようかと気楽に考えていたら。 「そうだ、おい、毅史ぃ」 いきなり新野が熟睡中の毅史の肩を揺さぶったので、忽ちにして爽の穏やかな気分は吹っ飛んだ。 「なぁ~、爽ちゃんの相手してやってくれよ。お前も一人だろ? 一人で寂しく飯食うんだろ?」 「ちょ、あの、ニーノ君」 「なぁなぁ、たまには誰かと食うのもいいよぉ?」 新野のしつこい攻撃に、毅史はのっそりと頭を起こした。 「はぁ?」 明らかに不機嫌な声色である。 爽は慌てふためき、しかし何もできず、毅史と新野の遣り取りをじっと見守った。 「爽ちゃんと昼飯食べてやってくれ」 「何でだよ」 「お前はもうおっきいんだからいろいろ口答えしちゃ駄目! じゃあ任せたぞ」 そう言うなり新野は大急ぎで教室を出ていった。 新野に取り残された爽は今にも後ろへ卒倒してしまいそうな思いで寝起きの毅史を眺めていた。 寝起きであるにも関わらず、彼の三白眼は剣呑な視線を放っていて、傍目にはちょっと末恐ろしい。 いつにもまして目つきが悪く、赤の他人ならあまりの迫力に胆を冷やしていたに違いない。 長い足を乱暴に組んで毅史は傍らに立つ爽を見上げた。 爽は動揺したが、今度は逸らさないで、ビクつきながらも懸命に彼を見返した。 「お前、使えそうだな」 「え?」 「変態に売って金稼ぐのに」 爽が円らな瞳を大きく見開かせると毅史は鼻先だけでフンと笑った。 「お前、冗談もわかんねぇの?」 まともに交わした最初の会話に、爽は、多大なる衝撃を受けずにはいられなかった……。 毅史はどこかへ移動しようとはせず、幾分賑やかな教室にて、コンビニで買ってきたパンを着々と口の中へ片づけていった。 自分の席に着いた爽は遅々たる速度で食事をとっていた。 箸の代わりであるフォークは口の中に収まりがちで、彼はちょくちょく毅史の横顔を盗み見ては、目が合う前にそそくさと俯いていた。 窓辺に背中をもたれさせた毅史は、分厚い音楽雑誌を膝の上に乗せ、イヤホンで音楽を聴いている。 教室に残ったクラスメートが他愛ない話に華を咲かせていつも通りの昼休みを謳歌している最中、爽は一人いつもと違う昼休みを過ごしている。 これまで広い背中ばかりを写してきた視界が、今は精悍な横顔を間近に捕らえており、爽にとってそれは予想外の進展であった。 何か、もうお腹いっぱいだな。 爽は半分以上残った、母親が毎朝丹精込めて作ってくれるランチボックスの中味を見下ろして、どうしたもんかと頭を悩ませた。 「食わねぇの?」 目線を上げると、毅史がイヤホンを外し、顔を傾けてこちらを見ていた。 「すげぇな。それ、全部手作りか?」 「うん。食べる?」 毅史は爽のささやかなる好意を遠慮なく受け入れた。 ランチボックスを手渡された彼は見ている方にまで満腹感を与える勢いで、瞬く間に爽の食べ残しを平らげてしまった。 「すごい」と、爽が率直な感想を洩らすと、毅史は「フツーだろ」と、さらりと言ってのけた。 「うまかった。どーも」 ランチボックスを返される。 爽は空っぽになったそれにしばし見惚れた。 軽くなったランチボックスとは反対に彼の胸は心地良い重みを擁していた。 蜂蜜色の頬は紅潮して生き生きとした輝きを発しており、まるでホワイトデーにバレンタインデーのお返しをもらった女の子さながらで。 「爽ちゃんと毅史君、付き合ってるみたいじゃない?」 教室のほぼ中央で固まっていた女の子のグループに揶揄され、爽は仰天して首を左右に振りまくり、毅史は聞こえていないフリを決め込んだ。 「爽ちゃんだったら毅史君もオッケーするかもね」 「あ、俺だったら即オッケー!」 「凸凹カップルで面白いよね」 口々に意見を出し合って勝手に盛り上がっているクラスメートに毅史は相変わらずの無表情を曝している。 爽は気が気でなく、鉄仮面にも等しい顔と脳天気に浮かれる面々を頻りに見比べた。 「お前って、犬みたいだな」 何気なく吐露された一言に爽は目をしばたかせる。 ふと薄ら笑い、毅史は、爽に顔を近づけた。 「そういえば、あの時見てたよな」 「え?」 「俺が女から打たれるとこ盗み見してただろ?」 「あ! そ、そんな、違うよ!」 「へぇ?」 毅史がニヤリと笑う。 随分と人を小馬鹿にしたような嗜虐的な笑い方で、無表情は崩れたものの、あまり喜べたものではない変化だった。 高比良君って、こんな笑い方する人だったっけ?  爽は今までこっそり行ってきた観察の日々を思い返して首を捻り、背中に冷や汗を流しつつも、必死になって弁解した。 「あれは偶然だよっ? あの日は家族と外食する約束してたから、それまで学校で時間潰して、五時も過ぎたしさぁ帰ろうって思って、そしたら偶々あの教室のドアが開いててーー」 「そんで盗み見したんだよな?」 毅史が自分の机に頬杖を突いたので爽はつい口籠もった。 あ、意外と睫毛長い、など、ちゃっかり新しい魅力を発見していたが。 「別に怒ってるわけじゃあねぇんだから、泣きそうな顔して言い訳する必要はなし」 爽は、彼の単調な物言いに益々頭を低くした。 「ご、ごめんなさい」 「だから、怒ってないって」 爽はイスの上でより一層縮こまった。 どういう態度でいればいいのか判断に迷い、心なしか首を傾げ、上目遣いに毅史を窺ってみる。 彼は広い背中を窮屈そうに曲げて惜しみなく爽を覗き込んでいた。 あからさまに赤面した爽は周章し、深く俯く。 毅史は怠慢そうな笑みの皺を口元に刻み、退屈しのぎに淡い色の旋毛を眺め続けていた。

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