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鱗の恋/童話パロ/逃亡者×水槽の少年

■この話は別シリーズ「The Story of.....」から移動させた作品です あるところにそれは美しい人魚姫がいた。 人魚姫は丘の上の王子に恋をした。 ヒトに恋をした人魚姫は、自ら尾鰭を斬り落とし、一生に一度だけ使えるという禁断の奇跡でもって、ヒトの足を産み生やした。 人魚姫は何も知らない王子と契りを交わし、二人は、星空と海の間で結ばれた……。 「いたぞ、こっちだ!!」 様々な異国からの船が集う港町。 太陽の元、光り輝く運河と白亜の建物が美しい調和を奏でる、アクアの都。 そんな潮の香り漂う町中の石畳を全速力で駆け抜ける男がいた。 「どこもかしこも魚臭い町だな」 所狭しと屋台の立ち並ぶマーケットを突っ走り、時には人を跳ね飛ばし、怒号を浴びせられながらも、男は振り返りもせずに先を急ぐ。 男の名はヴィッカスといった。 ヴィッカスは追われていた。 彼はある裏稼業の組織において邪魔者を始末する掃除人のような役割をこなしていた、だが、まぁありがちな問題というのが発生して、組織から追われる身となってしまったのだ。 裏切り、濡れ衣、口封じ、といったところか。 兎にも角にも謂れのない罪を着せられて、でっち上げの証拠も揃えられ、弁解の余地もなかったヴィッカスは逃げた。 数少ない知り合いには頼らずに単身、国から国へ。 しかし組織の新頭領は執拗極まりなく、各地に散らばる情報網を手繰り寄せては、追っ手を放ってきた。 「待ちやがれ、ヴィッカス!!」 マーケットのある路地から裏通りへ、曲がりくねった細道を走り、頭上高くに洗濯物のぶら下がった集合住宅を抜けて。 ヴィッカスは広場に出た。 広場には移動式見世物小屋のテントが大きく口を開いて、薄暗がりの滑稽なる喉奥へ、次から次に餌となる客を呑み込んでいた。 「本当にこの中だろうな!?」 「さぁ、入ったの、見たわけじゃねぇし」 「俺ぁ、こういう薄気味悪ぃトコが苦手なんだよ!」 悲鳴じみた笑い声が行き交う中、聞き覚えのある声が遠ざかっていくのを、物陰に潜んで聞き届けたヴィッカスはふぅっと息をついた。 月と同じ色をした短い髪をかき上げ、慣れた緊張感に張り詰めていた青水晶の双眸を、束の間瞼で癒す。 「新ボスのご執心には参るな、全く……」 暗幕に閉ざされた異空間。 白昼にして真夜中の如き世界を披露するフリークス、は、紛うことなき人間と、飼い慣らされた動物だ。 「さぁさぁ、蛇女の丸呑みショー、お次は生きた子鼠だ!」 「この熊はかつて一つの村に住む住民達全員を食い殺した、それは恐ろしい殺人熊!」 「魔女に呪われた蜘蛛男、とくとご覧あれ!」 どぎつい化粧で恐怖の造形に塗りたくった蛇女はイカサマで子鼠を平らげた風に見せ、通称殺人熊は今や調教師の命令通りに芸をし、蜘蛛男はただ全身に蜘蛛の巣のタトゥーを彫っただけ。 アイパッチをつけた、ぼろぼろのタキシードを纏う団長らしき男が子供達にステッキを突きつける。 「さぁさ、お次はこの見世物小屋の心臓、まさに我が要、可愛いお嬢さん、勇敢なお坊ちゃん、気絶にはお気をつけて、だけど目は逸らさずに……!」 鳴り出すドラムロール。 奇声にも近い歓声を上げる子供ら。 ヴィッカスは何気なくそちらに視線を向けた。 「海底で拾った水中の悪魔、セイレーンの落とし胤、はたまたポセイドンの末裔か、さぁ、今宵の悪夢はこいつで間違いない!!」 団長が口上を切るや否や、暗幕の一部が一気に開演さながらに左右へと開かれた。 そこに置かれたるは水槽。 なかなかの大きさだ、百九十に近いヴィッカスの背丈以上は優にある。 世にも怪しげな奇術で使用されそうな、全面がガラス張りのそれには、なみなみと水が湛えられている。 水底には鎖に繋がれた少年がいた。 子供達は出口でお菓子を配る道化師の元へ一目散に駆けていった。 がらんどうとなった心臓部、ヴィッカスは静かに水槽の元へ歩み寄る。 どういう仕掛けだろうか。 暗幕が開かれて十分は経過した。 苦しそうにするでも息継ぎをするでもなく、少年は、水底でじっとしていた。 白いシャツに半ズボンを履いていて、ゆらゆら、裾が波打っている。 セピア色の髪も。 もしかすると人形だろうか。 跪いたヴィッカスは戯れにガラスをノックしてみた。 すると。 少年は反応した。 ヴィッカスへ切れ長な双眸を向けてきた。 なんだ、これは。 仕掛けがまるでわからない。 「おい、聞こえるか?」 少年は、頷く代わりに手枷をつけられた両手をゆっくりと動かして、両方の掌をガラスにぴたりとつけた。 ヴィッカスは思わず笑った。 自身の想像を超えた不可解な光景に、ただ笑うしかなかった。 自分もガラスに掌を宛がってみる。 「聞こえるんだな? お前、苦しくないのか? 大丈夫か?」 海底の海草のように揺らめくセピア色。 まるで水死体だ。 だが少年は確かに水中で息をしている……。 ヴィッカスが立ち上がると少年の双眸は彼の青水晶を追って上を向いた。 水槽の上部の蓋には南京錠がとりつけられている。 それを確認した彼がまた跪くと、少年の双眸もまた真正面へ。 ヴィッカスと少年の掌がガラス越しに再び重なった。 「今夜、また会いにくるからな」 その夜は大いに荒れた。 猛り狂う風に海はとぐろを巻いた。 今にも飛ばされそうなテント小屋、酒を飲んで団員と共に高鼾をかく団長のポケットから鍵の束を失敬し、薄闇に閉ざされた心臓部へ。 ヴィッカスは約束通り暗幕に隠された水槽を再び訪れた。 少年はヴィッカスを待っていた。 水槽と少年の手枷の鍵を探し当て、解放されて大人しくしている濡れた彼を抱き抱えて、騒がしく波打つテントを速やかに後にした。 港では船が流されないよう各船員達が忙しげに出回っていた。 木々が今にも折れんばかりにしなっている。 雨まで降り出した。 「お前、名前は?」 「……ジェイド」 「そうか、俺はヴィッカスだ」 「……ヴィッカス、あの――」 「すまない、俺は急いでるんだ、ジェイド」 町を巡る運河にかけられた、人気のない橋の下で雨を凌いでいたヴィッカスは、最初から濡れていたジェイドにくたびれたジャケットを着せ、ついでにポケットに何枚かの札束を捻じ込んだ。 「船に乗せてもらうといい、気ままな旅に出るのも悪くないぞ」 「……ヴィッカス」 「お前、不思議だな、何で水の中であんなに息が続くんだ? 魚みたいだ」 「怪我してるの?」 腕に巻かれたばかりの包帯、そこに滲む鮮血。 しゃがんでいたジェイドを立たせると、ヴィッカスは跪き、笑いかけた。 「何だろうな、お前は俺の運命みたいなものだ」 水牢の如き水槽の底に繋がれた彼を見た瞬間か。 水を弾く切れ長な双眸と視線を絡めた瞬間か。 ガラス越しに掌を重ね合った瞬間か。 「お前を自由にするために俺はここへやってきた、そんな気がするんだ、ジェイド」 ヴィッカスはジェイドを残して運河の町を駆け抜けた。 やがて彼の背後には複数の足音が連なった。 雨音に掻き消されたが、時に、銃声も。 だがヴィッカスはやはり振り向かなかった。 ずぶ濡れの全身で血を流しながらも、この先に起こるであろう定めを見据え、恐怖や悔いに足をとられることなく走った。 あいつはきっと大丈夫だ。 どこか儚げで頼りない感じもしたが、金を渡したし、見た目も悪くない。 どこぞの王族の娘に見初められたっておかしくない、そうだろう? 「ここまでだ、ヴィッカス」 町外れの岸壁まで追い詰められたヴィッカスはやっと足を止めた。 追っ手は慈悲なき銃口をヴィッカスの背中に定めていた。 「ボスへの弔いだ」 「まさかお前があの人を殺すとはな」 当に弁解を放棄したヴィッカスは濡れそぼつ肩を竦めてみせただけ。 前のボスは現ボスに殺された、組織の人間は今に捨て駒扱いとなるだろう、そう、心の内で忠告してやった。 ヴィッカスの眼下では荒れ狂う海が容赦なく牙を剥いていた。 囚われたら最後、恐らく浮上できずに地獄へ召されることだろう。 「死んでボスに詫びろ」 風と海によって放たれる轟々たる咆哮が夜を脅かす最中、トリガーに指先がかかる僅かな音色をヴィッカスの耳は聞き逃さなかった。 数発の銃声が立て続けに奏でられて、瞬く間に、轟く夜に消えた……。 人魚姫は王子との間に子を授かった。 人魚の血を受け継ぐ子を。 人魚姫は我が子を幽閉し、世話は盲目の乳母に任せ、城の人間は疎か王子の目にさえ触れないようにした。 人魚の子供は自由を焦がれた。 海を焦がれた。 まだ出会わぬ運命に焦がれた。 あれだけ轟々たる咆哮を奏でていた風がやんだ。 雨もやみ、星空が雲間に覗き、海は驚くほどに凪いで。 穏やかな波音が夜を鳴らしていた。 「……」 ヴィッカスはぼんやりとそんな夜想曲を聞いていた。 浅瀬で半身を海に浸からせたまま、厚い雲が見る間に裂けて、星の瞬きに彩られた空が次第に広がっていくのを夢うつつに見上げていた。 正しく、一か八かの賭け、であった。 銃弾が放たれるよりも先にヴィッカスは断崖絶壁から海へ身を投げた。 当然、激しい潮の流れに呑まれて大量の海水を飲み、浮上できずに、息もできなくなり。 気を失った。 そして目覚めたのだ。 「……ヴィッカス……」 ジェイドの腕の中で。 気がつけば孤島の浅瀬に運ばれていた。 ジェイドにぎゅっと抱きしめられていた。 海原を挟んだ対岸では町明かりで光り瞬く港町が見えた。 あんなに綺麗な都だったのかと、まだ意識がはっきり覚醒しないヴィッカスは幻想的な夜景に見惚れた。 そんな夢うつつのひと時を問答無用に邪魔したのは痛み。 忘れていた腕の包帯を見やれば白が真っ赤に変わっていた。 「く……」 「痛むの、ヴィッカス?」 ジェイドが小さな声で尋ねてきた。 彼の膝に頭を預けていたヴィッカスは切れ長な双眸を見上げ、激痛に眉根を寄せながらも、その脳内にやっと疑問を抱くことができた。 あの時化る海でこいつはどうやって俺を助け出したんだ? どこにも船は見当たらないし、まさか、身一つで自分より図体のでかい俺をここまで運んできたっていうのか? 包帯に滲んだ血が砂浜へ打ち寄せる波に攫われていく。 傷口がもろに凍みて、ヴィッカスは、また呻いた。 ジェイドはそっと動いた。 ヴィッカスの半身を海に浸からせたまま彼の真横へ座り込む。 少年はシャツ一枚しか纏っていなかった。 濡れた青白い肌にぴたりと張りついて、その華奢な骨組みを強調している。 そっと、労わるように、ジェイドは傷ついたヴィッカスの二の腕を持ち上げた。 鮮やかな赤に染まった包帯に口づけた。 すると、どうだろう。 激痛が嘘のように瞬時に治まったではないか。 重い疲労を引き摺っていたはずの全身がすぅっと軽くなる。 包帯の下で出血が止まり、傷口までもが、跡形なく消えていく……。 「……もう大丈夫?」 ジェイドの問いかけに答えられずに、上体を起こしたヴィッカスは、まじまじと濡れた少年を見つめた。 「お前は何者なんだ、ジェイド?」 問いかけられたジェイドは。 おとぎ話のような身の上話をヴィッカスに聞かせてくれた。 潮騒との重奏によく合う澄んだ声音が夜気へと溶けていく。 「……お前が人魚の子供だっていうのか?」 ジェイドはこくんと頷いた。 「乳母が僕を逃がしてくれた。門番の目を掻い潜って、僕は、ずっと恋していた城の外へ……でも人買いに攫われて、あの見世物小屋へ」 「……そうだったのか」 「本当は、別の国の王族へ、男娼として……売られるはずだった」 「……」 「だけど僕は醜いから」 分散していた雲の端がぼやけ始めたかと思うと、みるみる仄白く染められていき、眩い満月が夜の天辺に現れた。 神々しい月明かりの下、ジェイドは、ゆっくりシャツのボタンを外していく。 零れんばかりの白い肌を途中まで曝すと、項垂れて、波打ち際の冷気に細い肩を剥き出しにしてヴィッカスへ背中を向けた。 ジェイドの背中には鱗があった。 「これが人魚の血を受け継ぐ証」 人魚姫なる母は今頃どうしているのか。 己の正体を知らしめる存在が遠退いたことに安堵しているのか。 それとも……。 「だからあんなに水中で息が続いたんだな」 ジェイドは肩越しにヴィッカスをそっと見つめた。 ヴィッカスは、これまでのヒトと全く別の表情を浮かべていた。 母でさえ忌み嫌った証から青水晶の目を逸らさずに。 彼はジェイドに笑いかけた。 「人魚の王子様、お前はやっぱり俺の運命だった」 「……」 「助けてくれてありがとう、ジェイド」 「……僕の方こそありがとう、ヴィッカス」 「これから俺もお前も自由だ、俺は荒海に落ちて死んだと思われたからな、命を賭けた甲斐があった」 「?」 「ああ、こっちの話だ。で、お前はどうするんだ?」 戯れに波を蹴って、寝返りを打ち、ヴィッカスは砂浜に頬杖を突く。 ジェイドは彼に向き直って月を仰いだ。 切れ長な双眸が月明かりを反射して淡く煌めく。 「……まだ決めてない……どうしようかな」 「お前には魔法があるんだろう?」 おとぎ話の中に出てきた、母なる人魚姫が一生に一度使えるという奇跡でヒトになったというエピソードを思い出し、ヴィッカスは気楽な物言いでジェイドに尋ねた。 ジェイドは月を見上げたまま浅く頷く。 「うん、だけどそれはもう、使ってしまったから」 再び打ち寄せてきた波に解けた包帯が攫われていく。 「今、貴方の傷を治したことで……」 大海原のどこか遠くで蒸気船の汽笛が鳴り響いた。 「そうだね、乳母に聞いたことのある、砂の都へ行ってみたいな……綺麗なオアシスが……」 夢見るように月を見上げていたジェイドは言葉を切った。 水飛沫がちらついたかと思うと、次の瞬間にはヴィッカスの腕の中にいた。 濡れて、冷えているはずなのに、温かな胸の上で強く抱かれた。 「……ヴィッカス?」 ヴィッカスはジェイドのセピア色に鼻先を沈めて、言葉も出せずに、ただ抱きしめた。 亡骸になるかもしれなかったこの身を救い、その上、傷まで癒した。 たった一度しか使えない奇跡を与えられた。 この美しい人魚に。 「ジェイド、俺も行っていいか」 「え?」 「お前の目指す場所へ、共に、どこまでも」 ヴィッカスの腕の中でジェイドが身じろぎした。 抱擁を緩め、少し正面を空けてやると、ジェイドは青水晶を真っ直ぐに見上げてきた。 「……まだヴィッカスといたいと思ったから……嬉しい」 青白かった頬は月光を浴びて生き生きとしていて。 うっすらと赤珊瑚の色を帯びていて。 煌めく双眸に心を奪われて。 ヴィッカスはジェイドに口づけた。 うねる波、渦巻く海中。 無数の泡沫と共に海底に沈み行くその姿を見つけた瞬間、心が引き裂かれそうになった。 もしもその命がすでに失われていたら、永遠に一度の奇跡を捧げようと思った。 その手をこの手にとった瞬間。 ヒトに恋した人魚姫の想いがわかったような気がした。 「ジェイド」 二人はまだ浅瀬にいた。 時に打ち寄せる波に半身を浸されながらも、その場から去らずに、ずっと。 下肢を深く重ね合っていた。 「ん……」 「痛くないか?」 未だかつてない熱にジェイドは初めて溺れていた。 ヴィッカスにしがみつき、体の奥底を暴かれることに肌を震えさせながらも、余すことなく身を委ねていた。 「平気……ヴィッカス……」 「寒くないか?」 「……ううん、熱い……」 奥まで許したヴィッカスの熱源が触れる場所、肌が重なる場所、指先が触れる場所、全てが。 「僕、すごく熱い……ヴィッカス……」 「俺もだ」 首筋に唇を押し当て、その脈動を感じつつ、ヴィッカスはジェイドを揺らめかせる。 浅く、弱く、時には深く強く。 思わず仰け反ったジェイドの両手に五指を絡ませる。 痛みから恍惚へ移ろうその表情に胸を抉られるような心地となり、キスをして上擦る吐息まで飲み干した。 絶え間なく揺らめかせながらシャツのボタンを全て外した。 首筋から鎖骨、胸の突端へキスを降り注いだ。 「ん……っ」 「ジェイド……背中を見てもいいか?」 涙目だったジェイドは一瞬双眸を見開かせた。 海水に自身の雫を滴らせ始めていた少年は、紅潮しきった頬を震わせ、ヴィッカスの唾液に濡れた唇で答えを紡いだ。 「……いいよ、ヴィッカス……見て……?」 ヴィッカスはジェイドからシャツを脱がせ、緩やかに華奢な肢体を反転させた。 背筋に沿って広がる人魚の証。 うっすらと海の色に染まった皮膚。 触れてキスをした。 もっとジェイドの奥まで我が身を捧げ、雫滴る彼のものを細やかに愛撫した。 「あ……あ……」 「いいか……?」 「ん……ヴィッカス……ヴィカ……」 ジェイドは何度もヴィッカスを呼号して、堪えきれずに、喘いだ。 淡く潤む双眸から次から次に涙が伝い落ちていく。 寄せては返す波に攫われて、大海へ、一つとなる。 いつの日か自身の指先に掬われる日がくることだろう。 「どうした、ジェイド?」 「貴方と出会ったときの思い出を波が運んできてくれたよ」 人魚の血を継ぐ青年はそう囁いて、首を傾げる男に、それは幸せそうに微笑みかけた…………。 end

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