479 / 596
君にさよなら-4
あれは何だったのだろうと、楠里は今更ながら思う。
清吾の揺れる後ろ髪に感じた、あの収拾のつかなかった思い。
まだ尾を引いている。
強烈で。
新鮮で。
なんだろう。
わからない。
「できましたぁ」
深皿を二つ持って清吾がテーブルの元へとやってきた。
湯気が漂い、濃厚な香りが鼻をくすぐった。
「飲みモン、何がいい? お茶でいい?」
次に烏龍茶のペットボトルを小脇に抱え、グラスを二つ持ってくる。
「ありがとう」と、楠里が礼を述べると「お礼を言いたいのはこっちだよ」と、清吾は返事をした。
礼を言われるようなことは何もしていない。
清吾は不可解なことばかり言い、不可解な真似ばかりする。
「どう? おいしい?」
「おいしいよ」
「俺が作ったんだぁ、楠里にそう言ってもらえるとすんげー嬉しい。すんげー幸せ。俺、楠里に好かれたいから」
また、不可解なことを言った。
清吾と向かい合ってシチューを食べる。
これこそ不可解の極みだろう。
胸の内に生じてくる疑問を楠里はシチューと一緒に呑み込んだ。
お代わりをしようとしたら清吾が代わりに注いでくれた。
後片付けをしようとしたら放っておいていい、と言われた。
昼食を終えた清吾はまた楠里をリビングのソファに誘った。
「昔話、してあげよっか」
楠里より僅かばかり背の低い清吾は背もたれに深く身を沈めた。
テーブル下に足を伸ばして益々小さくなる。
「あるところに男の子がいました。男の子は中学生です。男の子は一人の女に出会いました。二十歳過ぎの女を男の子はナンパしたのです」
男の子は遊びのつもりで本気じゃありませんでした。
でも女は男の子にぞっこん、恋をしてしまいました。
暇を持て余していた男の子は女と付き合ってやることにしました。
女の部屋で一日中ぼーっとしたり、たまにセックスしたり、ご飯食べたり、お風呂に入ったり。
とにかく女は男の子と一緒にいたがんの。
でも男の子は自宅があって、学校もあって、引き止めたがる女をなんとか宥めて、休み続けていた学校に久々に登校しようとしたの。
女は早起きして男の子を見送ってあげたんだけど。
片手にはコーヒー、片手にはカミソリ。
さて、女が何をしたかというと。
「こぉんな文字をつけちゃったわけ」
清吾はブレザーを脱ぐと右のセーターをシャツと一緒に捲り上げた。
いくつかの切り傷が刻まれている。
それは、文字、女の名前に見えなくもなかった。
歪なかたちで蚯蚓腫れになってしまっている。
痛々しい傷跡だった。
清吾は指先でそれを撫でながら小さく笑った。
「あーあって、そう思った。しょうがないなぁって。好きとか嫌いとか、もうどうでもよかったから。別れるのも面倒だったし、しばらくは一緒にいたんだよね。そしたらさ」
死んじゃった。
いきなり楠里は引き寄せられた。
傷に触れさせられる。
ぷっくりと盛り上がっていて、周辺の皮膚と感触が違う。
まるで細身のヒルが這っているようだ。
「気持ち悪くない?」
返答の仕様がなく、楠里は黙っていた。
腕まで冷たい。
まるで、血の通っていない、死体。
「自殺。手首切って。俺ね、あの女の死を知った瞬間、気づいたんだよ」
清吾は楠里の手に口づけた。
「あの女を愛してたって」
清吾は楠里の手を大切な宝物の如く愛しそうに撫でる。
「好きだった。大好きだった。後から後から気持ちが溢れてきて、抑え切れなくて。俺は絶望しちゃった。希望を持たなきゃ絶望することもないのに。俺は自分でも知らない内に望んでた。あの女と、彼女とずっと一緒にいること」
希望を知らなければ絶望を知ることもない。
「桐山」
「清吾でいいよ」
肩に重みがかかる。
「楠里は一重だね。綺麗な目。切れ長っていうのかな」
近すぎる。
ソファと清吾に挟まれる格好になり、逃げ道は彼の腕によって阻まれた。
楠里は身じろぎ一つできずに清吾を見上げた。
清吾は言う。
「冬休み中、ずっといて」
「え?」
「ここにいて。それで俺のこと好きになって」
意味がわからない。
不可解な言動にも限度がある。
「……楠里、俺のこと愛して」
二度目のキスは唇にきた。
楠里は顔を背けた。
つもりだった。
微動もせずに清吾の唇を受け止めている自分に楠里は戸惑う。
体と同様に冷たい唇。
だから、だろうか?
一分にも満たない何秒間がとてつもなく長いものに感じられた。
「……ファーストキス?」
顔を離した清吾の第一声に楠里は頷いた。
すると清吾の顔にみるみると笑みが広がっていく。
「どうしよ……嬉しい」
あどけない、あまりにも幼いその笑顔に、楠里は口をつぐんだ。
「いようよ、ずっと一緒に。帰らないで、俺のそばにいて……」
ともだちにシェアしよう!