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君にさよなら-4

あれは何だったのだろうと、楠里は今更ながら思う。 清吾の揺れる後ろ髪に感じた、あの収拾のつかなかった思い。 まだ尾を引いている。 強烈で。 新鮮で。 なんだろう。 わからない。 「できましたぁ」 深皿を二つ持って清吾がテーブルの元へとやってきた。 湯気が漂い、濃厚な香りが鼻をくすぐった。 「飲みモン、何がいい? お茶でいい?」 次に烏龍茶のペットボトルを小脇に抱え、グラスを二つ持ってくる。 「ありがとう」と、楠里が礼を述べると「お礼を言いたいのはこっちだよ」と、清吾は返事をした。 礼を言われるようなことは何もしていない。 清吾は不可解なことばかり言い、不可解な真似ばかりする。 「どう? おいしい?」 「おいしいよ」 「俺が作ったんだぁ、楠里にそう言ってもらえるとすんげー嬉しい。すんげー幸せ。俺、楠里に好かれたいから」 また、不可解なことを言った。 清吾と向かい合ってシチューを食べる。 これこそ不可解の極みだろう。 胸の内に生じてくる疑問を楠里はシチューと一緒に呑み込んだ。 お代わりをしようとしたら清吾が代わりに注いでくれた。 後片付けをしようとしたら放っておいていい、と言われた。 昼食を終えた清吾はまた楠里をリビングのソファに誘った。 「昔話、してあげよっか」 楠里より僅かばかり背の低い清吾は背もたれに深く身を沈めた。 テーブル下に足を伸ばして益々小さくなる。 「あるところに男の子がいました。男の子は中学生です。男の子は一人の女に出会いました。二十歳過ぎの女を男の子はナンパしたのです」 男の子は遊びのつもりで本気じゃありませんでした。 でも女は男の子にぞっこん、恋をしてしまいました。 暇を持て余していた男の子は女と付き合ってやることにしました。 女の部屋で一日中ぼーっとしたり、たまにセックスしたり、ご飯食べたり、お風呂に入ったり。 とにかく女は男の子と一緒にいたがんの。 でも男の子は自宅があって、学校もあって、引き止めたがる女をなんとか宥めて、休み続けていた学校に久々に登校しようとしたの。 女は早起きして男の子を見送ってあげたんだけど。 片手にはコーヒー、片手にはカミソリ。 さて、女が何をしたかというと。 「こぉんな文字をつけちゃったわけ」 清吾はブレザーを脱ぐと右のセーターをシャツと一緒に捲り上げた。 いくつかの切り傷が刻まれている。 それは、文字、女の名前に見えなくもなかった。 歪なかたちで蚯蚓腫れになってしまっている。 痛々しい傷跡だった。 清吾は指先でそれを撫でながら小さく笑った。 「あーあって、そう思った。しょうがないなぁって。好きとか嫌いとか、もうどうでもよかったから。別れるのも面倒だったし、しばらくは一緒にいたんだよね。そしたらさ」 死んじゃった。 いきなり楠里は引き寄せられた。 傷に触れさせられる。 ぷっくりと盛り上がっていて、周辺の皮膚と感触が違う。 まるで細身のヒルが這っているようだ。 「気持ち悪くない?」 返答の仕様がなく、楠里は黙っていた。 腕まで冷たい。 まるで、血の通っていない、死体。 「自殺。手首切って。俺ね、あの女の死を知った瞬間、気づいたんだよ」 清吾は楠里の手に口づけた。 「あの女を愛してたって」 清吾は楠里の手を大切な宝物の如く愛しそうに撫でる。 「好きだった。大好きだった。後から後から気持ちが溢れてきて、抑え切れなくて。俺は絶望しちゃった。希望を持たなきゃ絶望することもないのに。俺は自分でも知らない内に望んでた。あの女と、彼女とずっと一緒にいること」 希望を知らなければ絶望を知ることもない。 「桐山」 「清吾でいいよ」 肩に重みがかかる。 「楠里は一重だね。綺麗な目。切れ長っていうのかな」 近すぎる。 ソファと清吾に挟まれる格好になり、逃げ道は彼の腕によって阻まれた。 楠里は身じろぎ一つできずに清吾を見上げた。 清吾は言う。 「冬休み中、ずっといて」 「え?」 「ここにいて。それで俺のこと好きになって」 意味がわからない。 不可解な言動にも限度がある。 「……楠里、俺のこと愛して」 二度目のキスは唇にきた。 楠里は顔を背けた。 つもりだった。 微動もせずに清吾の唇を受け止めている自分に楠里は戸惑う。 体と同様に冷たい唇。 だから、だろうか? 一分にも満たない何秒間がとてつもなく長いものに感じられた。 「……ファーストキス?」 顔を離した清吾の第一声に楠里は頷いた。 すると清吾の顔にみるみると笑みが広がっていく。 「どうしよ……嬉しい」 あどけない、あまりにも幼いその笑顔に、楠里は口をつぐんだ。 「いようよ、ずっと一緒に。帰らないで、俺のそばにいて……」

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