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君にさよなら-5
彼女を失って絶望した。
死んでから、その存在のかけがえのなさに気づいた。
そして愛してとこの俺に言う。
高級車の騒々しいエンジン音が鳴り響いている。
近所の住人が車庫入れに至っているようだ。
無防備な清吾の寝顔はすぐそこだ。
楠里は瞼を下ろして、乾いた暗闇に身を委ねた。
目覚めると夕日に染められていたはずのカーテンは完全に閉ざされていた。
隣に清吾の姿はない。
スタンドが点いているものの薄暗かった。
ダイニングに人の気配はなく、辺りは沈黙している。
二階には母親がいるはずだが、その気配も感じられない。
耳を澄ませば水を流す音。
誰かが入浴中のようだ。
冬休みの宿題として配られていたプリントを通学鞄から取り出して、目を通していると、五分も経過しない内に清吾がリビングに現れた。
「あ、起きてる」
清吾は真っ黒なパジャマを着ていた。
湯上りのため頬は上気してほんのり薄赤く染まっている。
襟元から覗く、くっきり浮き出た鎖骨が異様に目立っていた。
髪は水気を含んでしんなりし、顔にかかっている。
裸足の彼はぺたぺたとフローリングの床を踏み鳴らし、冷蔵庫からペットボトルをとってくると、楠里の隣に密着した。
「楠里、いつお風呂入る? まだいいかな」
濡れた髪を頬に押しつけられる。
楠里は反対方向へ体をずらそうとした。
「冷たい?」
手を握られる。
頬は赤いのにその手は凍えたままだ。
「ね、夕飯シチューでいい? 明日買出し行かないと。食パン焼いて一緒に食べよう、それでいい?」
清吾がリモコンでテレビの電源を入れた。
大きな画面に映し出されたバラエティ番組。
派手なセットに目がちかちかした。
テレビは滅多に見ない。
夕飯時に中学生の弟が欠かさず見えている音楽番組すら、まともに鑑賞したことがなかった。
「あ、そーだ」
テレビに見入っていた清吾が急に楠里のほうを向いた。
「家に電話しといた。お母さん、感じのいい人だった。よろしく、だって」
それだけ言って、清吾は再びテレビに釘づけとなった。
司会者の言葉に時折笑い、その度に細い肩が揺れた。
夕食は八時を過ぎてから。
食べ終えた清吾が一日分の洗い物を片づけるのを楠里はそばで傍観していた。
母親は何か食べたのだろうか。
尋ねる気にもなれずに楠里は清吾から着替えを借りて風呂に入った。
「ここ、使って」
手を引いて連れて行かれた二階の隅の部屋。
ベッドが一つ、ぽつんと置かれている。
四隅の見える空白の砦のような室内だった。
「隣が俺の部屋。トイレはあっちの奥にあるから。間違ってもおかーさんの部屋は開けないで」
ドアを閉める間際に清吾は微笑んだ。
「おやすみ」
ばたん
楠里は電気も点けずに暗闇のベッドに寝転がった。
階下のリビングからテレビの音声が聞こえてくる。
清吾の笑い声も。
何を考えているのだろう、と楠里は思った。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
眠ったのかどうかもわからない。
まどろんでいただけだったのか。
夢でも見ているのかと思った。
声が聞こえた。
聞き覚えのある旋律だった。
小学校で習った曲か、それ以前から知っている童謡か。
笑いながら歌っていた。
とても楽しそうだった。
キィ、とドアの軋む音がした。
ぼんやり光が浮かんでいる。
その光の中心に女の顔があった。
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