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君にさよなら-8
「お願い、切って。平気だから、そのほうが楽だから」
肌は赤く爛れて血が滲んでいる。
塞がりかけていた傷は、瘡蓋が引き千切られて、白っぽい柔らかそうな傷口を覗かせていた。
「どこでもいいから適当に」
楠里は手を動かした。
切っ先が皮膚に到着する。
加減がわからず、力を抜いて、数ミリ滑らせた。
いきなり清吾が楠里の手首を捕らえた。
「……っ」
肌の弾力。
皮膚を裂く、些細な手応え。
腕の半周を切りつけられてできた裂け目にじわりと血が満ちた。
清吾は大きく息を吐く。
傷つけられたばかりの腕を顔の前まで持っていくと、傷口に唇を被せた。
傷で埋め尽くされた左腕。
傷で庇える傷など、あるのだろうか。
ゆうべの清吾の顔と、先程の清吾の顔が、だぶった。
「……楠里」
体が勝手に発情している。
「トイレ、に」
「いーよ、楠里」
清吾は悪びれもせずに楠里の股間へ手を這わせた。
床に膝を突き、顔を埋めてくる。
さっきまで血を舐めていた舌が纏わりついているのかと思うと、楠里は、昂った。
無意識に伸びた手が清吾の頭を押さえつける。
そのとき楠里は気づいた。
清吾は楠里のペニスを口に含みながら自慰を行っていた。
結局、昨晩のリプレイ。
場所が変わっただけで行為はちっとも違わなかった。
お互いに果てたものの、清吾が退こうとしないので、楠里はしばらく彼の体内にいず割り続けることに。
着たままの服が汗ばむ肌に張りつく感触が気持ち悪い。
最初は自分と同様に清吾の体も火照っていたが、次第に冷たくなっていき、彼の頬に密着している場所だけがひんやり心地よかった。
「俺のこと好きになってくれた?」
耳元で囁かれる声。
楠里は無言でいた。
夕方、清吾は買出しへ出かけた。
一人、リビングでぼんやりしていたら、二階から物音がした。
洗濯物を取り込んでいるようだ。
それから間もなくして二階ホールに母親が現れた。
楠里が見上げていると彼女はゆっくり下へ視線を向けた。
「あら、こんばんは」
彼女は自然な挨拶をしてきた。
そしてホールを往復し、自分の部屋へと消えた。
物音はそれから一度も聞こえてこなかった。
何事もなく過ぎていく日々。
毎晩、楠里は清吾と同じベッドで寝た。
リビングのソファで寝ることもあったし、何もしない夜はなく、明け方までセックスするのが普通になった。
時々、母親の笑い声が夜の静寂を貫くこともあった。
俺のこと、好きになって、愛して。
清吾は相変わらずそんなことを希い、楠里のそばにしがみついていた。
「はい、どーぞ」
夕食は三枚重ねのホットケーキにコーンスープ、飲み物は野菜ジュースというパターンが多かった。
食卓にはたまに母親も同席することがあった。
「おかーさんにはこれ」
清吾が彼女の前に置くものは毎回オムレツだった。
整った形、赤いケチャップが添えられた。
「いただきまーす!」
清吾はホットケーキにバターをたっぷり塗る。
楠里はバターもシロップもつけないで食べる。
母親はもそもそとオムレツを頬張る。
目の下には隈があった。
指先は小刻みに震え、どこを見ているのかはっきりしない。
食後、彼女は饒舌になる。
清吾の何でもない一言に腹を抱えて笑い転げる。
「映画のワンシーンみたいって、笑うんだ。レンズ越しの景色みたいに感じてんのかな」
独り言を呟きながらうろうろ家中を徘徊する母親を見、清吾は、普段と変わらない表情でそう言った。
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