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君にさよなら-10

家に帰ると母親は怒っていた。 夕食の途中で、テーブルにはホットケーキではない食べかけの料理が並んでいた。 翌日は始業式だった。 学校に登校し、教室に入り、席に着く。 周囲の喧騒は小鳥のさえずりみたい。 今日から始まる三学期に期待も不安も抱かず、そのイスに座っている。 窓ガラスはクラスメートの呼吸で曇り、チャイムが鳴って、担任が教室に入ってくる。 彼だけがいない。 楠里は席を立った。 その音はやたら大きく教室の隅々にまで響いた。 担任が名前を呼ぶ、クラスメートが注目している。 楠里は立ち止まらずに歩き続けた。 鞄を忘れてきた。 マフラーも置きっぱなしだ。 冷たい風にその身を嬲られながらも、灰色の空の下、楠里は歩くのを止めない。 ブレザーのポケットに偶然入っていた硬貨を頼ってバスに飛び乗った。 寒さのため両手が震えている。 風に煽られた髪が視界を覆い隠していたが、払いのけるのも億劫で、そのままにしていた。 バスを降りた楠里はいつもより広い歩幅で早足となって歩いた。 その家の門扉を開ける。 駆け込んで、インターフォンを鳴らし、ドアの取っ手に空しくしがみつく。 「どなた?」 声が聞こえ、身を退かすと、ドアが細く開いて母親が顔を覗かせた。 「ああ、貴方ね、こんにちは」 楠里はろくに挨拶もできずに家の中へと上がった。 「清吾はお風呂にいるわ」 楠里はバスルームに向かった。 ひんやりとしたフロアを突き進んで、奥へと辿り着き、浴室の戸を開けた。 清吾は浴槽に浸かっていた。 真っ白な肌と排水溝へと連なる赤い液体がなんだか目に眩しかった。 楠里は清吾がどこかに行ってしまうことをずっと恐れていた。 「行かないで」という言葉の代わりに不可解が感覚としてそれは楠里の胸にずっとわだかまっていた。 眠っているような安らかな顔。 楠里はぼんやりと浴槽の前で佇んだ。 手首のどこを切ったのかなんて、もう、どうでもいい。 濡れたタイルに膝を突いて楠里は清吾を抱きしめた。 鼻先が、掌が、胸が、清吾の冷たい温もりに包まれた。 人形と見間違うくらいの白い体は楠里の腕の中でただ横たわっていた。 痛みを伴う切ない欲望。 楠里は清吾をいつまでも抱きしめていたかった。 「……泣いてるの?」 掠れた、小さな清吾の声に、楠里は返事をしなかった。 「楠里……」 水面が揺れる。 清吾が腕を伸ばそうとしている。 こんなときでも自分を抱きしめようとする傷だらけの腕。 「楠里が愛してくれるなら死んでもよかった」 白い包帯を手首に巻かれた。 巻いてくれたのは楠里で、母親はソファの裏から眺めているだけだった。 パジャマに着替えた清吾は毛布に包まってソファに横になっていた。 風が口笛にも似た音色を紡いでいる。 母親は子守唄を口ずさんでいた。 「楠里」 彼に膝枕してもらっていた清吾はその名前を口にしてみた。 楠里は無言で清吾を見下ろしていた。 彼は、いる。 今、ここに。 清吾は目をちょっと大きく見開かせて、そして、泣いた。 死んだ君に教えてあげたかった。 この思いを。 この希望を。 この止め処ない安らぎを。 end

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