61 / 132

兄弟フラストレーション/おおらか兄×意地っ張り弟

学校で実施されている夏期講習を終えて帰宅してみれば兄の岳之(たけゆき)が帰省していた。 「ただいま、おかえり、広海」 四国の造船所で技能工として働いている岳之。 主に船内での作業となるので日焼けはしていないが、身長百八十センチ前後の体はしっかりした骨組みで適度に筋肉がついている。 短い髪、いつもピンと伸びた背筋、少年っぽさが残る快活な笑顔。 玄関ドアを開いて出迎えてくれた二十六歳である兄の変わりない笑顔を前にして。 暑い夕方の道を歩んできた高校三年生の広海(ひろみ)は速やかに視線を逸らした。 「……おかえり、ただいま、兄さん」 岳之が実家を離れたのは高校卒業後のことだ。 第一希望にしていた大学の工学部に合格し、春、新しい土地へと旅立った。 「やだ。なんで遠く行っちゃうの、お兄ちゃん」 あの頃と比べて広海は随分変わったと、岳之は思う。 「ごめんな。でもゴールデンウィークには帰ってくるから」 「やだっ」 小学校四年生だった広海はぽろぽろ涙して真正面からしがみついてきた。 面倒見がよく、ケンカも滅多になく、どんなときも優しかった年の離れた兄。 弟はそんな兄が大好きだった。 家からいなくなるなんて悲しくて寂しくて堪らなかった。 「僕もいっしょ行く」 かつては何ともいじらしかった弟。 「広海、夏休みはどこも遊びに行かないのか?」 「おれ、受験あるし。勉強しないと」 「高校最後の夏休み、楽しまないともったいないぞ?」 「……課題やらないと」 兄弟団欒もそこそこにリビングから二階の自室へ引っ込んだ広海に岳之は。 「広海の俺に対する放置度、年々ひどくなってる?」 両親は共に苦笑い。 「……はぁ」 一方、自室の明かりを点けてシステムデスクに着いた広海は一人ため息をついた。 プリントやテキストが入ったスクバは足元に放置したまま両頬杖を突いて俯く。 癖のない髪がサラリと滑らかな頬に伝った。 涼しげに長い睫毛がそっと双眸を覆う。 兄さんが帰ってくるの、冬休みぶりだ。 今年は忙しくて春休みは帰ってこれなかった。 広海はデスクにうつ伏せになった。 階下から僅かに聞こえてくるテレビの音声と家族の話し声。 最も鼓膜に届くのはよく通る楽しげな笑い声。 「兄さん」 少し痩せた? ちゃんとごはん食べてる? またビールばかりの晩御飯で済ませてない? ……向こうで、三人目の彼女、できた? 聞きたいことはたくさんあった。 答えを永遠に知りたくない気もした。 みっちりスケジュールの組まれた講習とため息のつき過ぎで疲れて眠っていたらしい。 「ん……」 束の間の眠りから目覚めた広海は目元を擦りながら身を起こした。 するり、肩にかけられていたタオルケットが落ちる。 起き抜けで思考がままならない頭で反射的に拾い上げ、首を傾げる広海に、その声は届いた。 「あんまり無理するんじゃないぞ、広海?」 びっくりして振り返れば自分のベッドに堂々と寝そべって片肘を突く岳之と目が合った。 「い、いつ入ってきて、せめてノックくらい」 「したぞ? でも反応なかったから。よいしょ」 ベッドから立ち上がった岳之は回転イスに座る広海のすぐ隣までやってきた。 適当に引っ張り上げてろくに目を通していなかったデスク上のプリントを覗き込んでくる。 近くなる距離。 息がしづらくなる。 「難しそうだ」 「……別に」 「風呂どうする? 先に入るか?」 「……どっちでもいい」 「久し振りにいっしょに入るか」 もうこのばか、早くどっか行け、 岳之のハーパンのポケットで携帯の着信音が鳴り渡った。 悪戯に広海の髪をぐしゃっと乱してその場を後にする兄。 「もしもし? どうした?」 ドアが閉められる間際に聞こえたいつにもまして優しい声音。 そしてドアはぱたんと閉ざされて。 広海は一人きりになった。 何度目かもわからないため息が部屋を彷徨った……。

ともだちにシェアしよう!