75 / 132

おとうさんと(永遠に)いっしょ-5

普段より仕事を早めに終えられた眞一は帰宅途中、たまに立ち寄る西洋菓子店でエクレアとケーキを買い、車を走らせて我が家を目指した。 来週は電子顕微鏡の定期メンテナンスのため技師が入るから、走査と透過、両方の部屋の掃除をしなくちゃな……毒劇物の保管点検は、まだ先だったろうか。 廃液回収は来月だったから、暗室の現像液と定着液、換えておくか。 ……久し振りに八時前に帰宅できたな。 車を車庫に入れ、きちんと閉じられていた門扉を開閉した辺りで、玄関ドアのロックが外される歯切れのよい音を眞一は聞いた。 車庫入れの気配を察した脩は毎回、眞一がチャイムを鳴らす前にドアを開けてくれるのだ。 「おかえり」 「ただいま」 玄関で差し出されたケーキの箱に脩は顔を綻ばせる。 「晩御飯の後、食べようよ。紅茶淹れるから」 「そうだな、明日より今日食べた方が、おいしい……」 靴を脱ごうとした眞一はそれが目に止まって台詞を切った。 「コーヒーがいいかな。どっちにしようかな」 脩は上機嫌でケーキの箱を台所へと持っていく。 眞一は首を傾げながらも、とりあえず靴を脱いで、居間へと進んだ。 「なぁ、脩。あれはどこから……」 眞一の台詞はまたしても中途半端なところで途切れた。 居間のソファに横たわった子供を見、その先を続けることができなくなった。 「わぁ、おいしそう」と、台所ではしゃぐ脩の声が耳を通り過ぎていく。 その声に目覚めを誘われたようで、ソファの上で眠っていた子供は俄かに寝返りを打つと、小さな欠伸を洩らして、立ち竦む眞一の視線の先でゆっくりと起き上がった。 「あ……」 子供は片目に眼帯をしていた。 「君、名前は?」 「いちはら、せいや」 「せいや君。お家はどこかな」 「この子の家、藤倉さんの隣のアパートだって」 「そう。お家の人が心配してるだろうから、帰ろうか。おじさんが送るから」 「誰もいないんだって、今。一人ぼっち。可哀想だから泊めてあげようよ」 「脩」 「ううん。もうすぐ、たっくん、かえってくる」 「たっくん?」 「ママ、やきんでいないから、たっくんがいる」 「……」 子供を自宅に泊めたがる脩を家に残して、眞一は彼の手を引き、常夜灯の点る夜道を進んで近所のアパートへと向かった。 「しゅう君、の、おにいさん?」 「ううん。お父さん」 「ふぅん。しゅう君、かっこいい。はいゆうさんみたい」 「……脩に、何か」 何かされなかっただろうか。 その先を声にして紡ぐことが、また、眞一にはできなかった。 柔らかく温かな手で何の警戒もなしに自分の手をぎゅっと握る子供に、眞一は、何だか涙が出そうになった。 アパートの角部屋にはママもたっくんも誰もいなかった。 眞一は子供が持参の鍵でドアを開けて帰宅するのを見届けると、擦りガラスの戸越に見えた散らかり放題の室内を視界の端に一瞬だけ捉え、特に何を言うでもなく、アパートを後にした。 子供がたっくんやママに今日のことを告げ、家を訪れる者がいたとしたら、その時はその時だ。 我が家に帰ると脩は台所で豚の生姜焼きを作っている最中だった。 「エクレア、一つあげればよかったな」 「脩」 「ねぇ、あの子ね」 眼帯の下、青く腫れ上がってた。 内緒の話、僕にしてくれたよ。 たっくんに突き飛ばされて、箪笥にぶつけて、痛くて泣いてたら、あの眼帯つけられたんだって。 ひどいよね。ひどいよ。絶対、ひどいよね。ひどくない? ねぇ、お父さん、そう思わない? 翌日、脩は帰り道に子供の姿を探したが、結局見つけられず、そのまま家に帰った。 アパートへの訪問は眞一から禁じられていた。 洗濯物を畳みながら、脩は、青痣を眼帯で隠された子供のことを思った。 眞一はいつもより大分早めに仕事を切り上げると定時で大学を後にした。 車のハンドルを握る間、懸念、不安に押し潰され、矢鱈と喉が渇いた。 脩は普通じゃない。 身をもって知っている、我が子が悪びれるでもなく平然と手にしているその狂気を。 肉親である自分だけに向けるのならまだいい。 あれがもしも他人に振り翳されたら、自分は、どうすればいい。 どう我が子を守りきればいい……。 「おかえり、お父さん」 いつものように玄関で出迎えてくれた脩の次に、眞一は玄関床を見下ろして、小さな靴がないことを確認した。 「せいや君、いないよ?」 眞一が戻した視線の先で脩はそっと笑う。 「お父さんに言われたこと、僕、ちゃんと守ったよ?」

ともだちにシェアしよう!