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君の知らない世界/弟×兄/シリアス

■注意:鬱/リスカ/ヤンデレ/メリーバッドエンド 俺には兄がいる。 九つ違いという、年の離れた、昔から優しい兄。 俺達は2LDKのアパートに兄弟二人で暮らしている。 「おかえり、兄さん」 公務員の兄がアパートに帰宅するのは六時過ぎ。 すでに高校から寄り道せずに真っ直ぐ帰り、掃除や洗濯を済ませていた俺に、兄はいつも礼を言う。 「ありがとう、じゃあ、食事の支度をするから」 時間があるので自分が作っておいてもいいのだが兄はそれを断る。 家事を全部お前にさせるのは兄として不甲斐ないからと、下ごしらえや手伝いすら受け入れず、部屋で勉強するようやんわり促してくる。 生活費を負担するのは兄だ。 バイトをしたいと言っても「まだ高校生のお前がそんなことをする必要はない」と首を左右に振るばかりで、悲しそうに微笑するものだから。 唯一の家族を困らせたくない俺は結局、クラスメートとそう変わらない学校生活に甘んじている。 数学の問題を解いていたら扉が二回、ノックされた。 返事をして、自室の明かりを消し、隣接するリビングに移動する。 キッチンカウンターと直角になるよう置かれたダイニングテーブルには出来立ての温かな料理がすでに並んでいた。 通勤着のスーツからルームウェアに履き替え、上はワイシャツのままという格好に前掛けエプロンをつけた兄が、グラスの準備をしている。 その姿は腰周りが強調されて自分より細身だと毎日痛感させられる。 「水、とるね」 「ああ、ありがとう」 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してダイニングテーブルに着く。 兄が二つのグラスを持って向かい側に座ると、いただきますと、合掌した。 「今日ね、おばあちゃんから電話があったよ」 「元気そうだった?」 「うん、相変わらず腰が痛いみたいだけど、絵葉書の教室、通ってるって」 「そう」 「遊びにおいでって」 「うん」 「あ、これ、おいしい」 「柚子胡椒、少し入れてる」 兄の食べ方はとても綺麗だった。 食器に添えられた長い指も、見栄えがいい。 ワイシャツの袖を肘までたくし上げており体毛の薄い腕が曝されている。 一つ、違和感を与えるのは、左手首にはめられた黒のリストバンド。 家の中でも外でも兄はそれを外さない。 「辛味のある方が好きだろう?」 グラスの水を含んで、飲み干して、兄は俺に微笑みかける。 誰よりも優しい兄。 リストバンドの下には過去の悲しみが深く刻まれている。 俺達の両親は九年前に交通事故で死んだ。 俺は八歳、兄は十七歳だった。 事故当時、風邪を引いていた俺は家にいた。 兄は両親と一緒に車に乗っていた。 後日、兄は後追い自殺を図った。 俺は今でもよく覚えている。 夜中だった。 そばにいてくれた親戚が一時帰宅していた最中を狙ったのだと思う。 前後のことはあまり記憶にない。 確かふと目が覚めて、心細くなった俺は、兄の姿を探した。 両親がいなくなり、急に広く感じらるようになった家の中を泣きながら歩き回った。 泣いていたらすぐにそばへ駆けつけてくれる兄がいつまで経っても来てくれない。 幼いなりにも胸を締めつけられるような不吉な予感がした。 両親を失った際には不意打ちの余り感じることもできなかった恐怖。 涙を引っ込ませて薄暗い廊下に突っ立っていたら、シャワーの音が、耳に届いた。 自分の泣き声に掻き消されてそれまでまるで気づかなかった。 「おにいちゃん」 壁伝いに水音のする方へ近づいた。 冷えた床に裸足の裏が張りついて、進む度に、間抜けな音が立った。 両親の寝室で寝ていた俺はそこから引き摺ってきたタオルケットを頭から被って、脱衣所に、やってきた。 曇りガラスの向こうには明かりが点いている。 「おにいちゃん」 呼びかけても返事はない。 お風呂に入っているはずなのに、脱いだ服が見当たらず、着替えのパジャマもない。 知らない人がお風呂に入っていたらどうしよう。 おにいちゃんはその人にもう食べられていて、ぼくも食べられたら、どうしよう。 この間、友達に聞かされた怖い話を思い出して、ぼくは立ち止まった。 おにいちゃん、おにいちゃん。 あれ。 あの赤いの、なんだろう? 曇りガラス越しに見えた赤色。 タオルケットを被ったまま、バスマットを踏みつけて、浴室への扉に手をかける。 扉は小さく軋んで開かれた。 おにいちゃんはやっぱりお風呂に入っていた。 知らない人じゃなくて、ほっとしたけれど、ぼくは首を傾げる。 どうして服を着たままお湯の入っていないお風呂に入ってるの? どうしてシャワーを出しっぱなしにしているの? どうして手首が赤いの? 浴槽の縁から投げ出された左手首の下を止め処なく溢れ出る鮮血が真っ赤に染めている。 シャワーフックに引っ掛けられたヘッドから降り注ぐ冷水と交じって、タイル上を流れ、薄められた血液が排水溝へと呑まれていく。 タイルには父が愛用していた、血糊がついて滑りを帯びた剃刀が落ちていた。 濡れた皮膚には裂けた跡。 横にではなく、動脈に沿って縦に深く斬りつけた傷口が刻まれていた。 「ごちそうさま」 せめてこれだけはさせてほしいと以前に願い出、兄が譲ってくれた後片付けを始めた。 シンクに食器を運んで水を流し、スポンジを泡立たせ、二人分の皿やグラス、茶碗を洗っていく。 兄は洗濯物にアイロンをかけていた。 気がつけば俺は祖母と一緒に病室にいた。 兄は真っ白なベッドで眠っていた。 目覚めると、俺は駆け寄って、青白い顔を覗き込んだ。 「おにいちゃん、おにいちゃん」 ぼんやりしていた双眸がゆっくりとこちらを向いた。 「ひとりにしないで」 「……」 「おいてかないで」 泣きながら訴えたら、ぼんやりしていた双眸からも、涙が零れ落ちて。 ゆっくりと伸ばした右手で俺の頬を拭うと深く傷ついていながらも兄は笑いかけてくれた。 「忘れ物、ない?」 「ないよ、小学生じゃないんだから」 「鍵は持った?」 問いかけてくる兄に俺は笑って頷く。 朝、同じ時間に俺達はアパートを出る。 兄が鍵をかけるのを待って、一緒に、清々しい朝日に満ちた道路に出る。 ネットを持ち上げてゴミを捨てていたら同じアパートの住人に挨拶され、挨拶を返したら、兄と声が完全に揃った。 「兄弟ねぇ」 微笑ましそうに言われて俺はちょっと恥ずかしくなった。 俺はいつの間にか兄の背を追い越していた。 「今日はカレーにしようかな、ビーフとチキン、どっちがいい?」 いつの間にか兄に見上げられるようになっていた。 睫毛の長さがはっきりわかるようになって。 眩しい光を吸い込んで淡く煌めく双眸をとてもいとおしいと思うようになって。 「ビーフがいいな」 「わかった」 「材料、家にあるので足りる?」 「足りるよ」 これからは俺が兄さんを守りたい。 そう、胸を高鳴らせるようになった。

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