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君の知らない世界-2
僕には弟がいる。
九つ違いという、年の離れた、弟。
僕達は2LDKのアパートに兄弟二人で暮らしている。
昔は両親と四人で暮らしていた。
幼少時代、泣き癖のひどい弟は所構わず大っぴらに泣き喚き、優しかった父と母をよく困らせた。
少しでも二人の負担を軽くしたくて、よく、ぬいぐるみ片手に相手をしたものだ。
僕達の両親は九年前に交通事故で死んだ。
僕は十七歳、弟は八歳だった。
事故当時、風邪を引いていた弟は家にいた。
僕は両親と一緒に車に乗っていた。
あの日は雨が降っていた。
買い物の帰りで、一人家で寝込んでいる弟を心配して、ハンドルを握る母は珍しくスピードを出していた。
普段なら信号が黄色に変われば停まっていた。
だけど、あの日、母はアクセルを踏んで加速させたのだ。
事故前の記憶はそこで途切れている。
気がつけば節々が疼くような痛みの中、病室のベッドに寝かされていて。
付き添ってくれていた祖父母から父と母の死を聞かされた。
「ねぇ、おとうさんは? おかあさんは?」
顔を合わせれば軽傷で済んだ僕に容赦ない質問を浴びせてきた弟。
父と母はもういない、だから相手をする必要もない、僕は何一つだって喋りたくなかった、本当は。
だけどまたしても、小学生だというのに幼児のように泣き喚き、今度は祖父母を困らせようとするので、仕方なく弟に付き添った。
父さんと母さんが死んだのはお前のせいだ。
その夜、ずっと寄り添ってくれていた親戚が家を一端離れ、彼らを見送った僕は、父さんと母さんを殺した弟を殺そうと思い、二階に向かった。
小さな体だ、両手で首を締めればきっとすぐに息絶える。
自室ではなく、父と母を恋しがり、二人の寝室で弟は寝ているはずだった。
確認のため、先に弟の部屋を覗いてみると、予想した通りそこは無人であり、僕は足音を立てないよう廊下を進み、細く開かれていた主寝室のドアを開けた。
母のベッドに敷かれた布団がこんもりと盛り上がっている。
いる。
廊下の明かりが薄暗い寝室に細く差し込んでいて、その光の筋に沿って、手前のベッドに近づいていく。
弟が二階に上がって一時間以上は経過していた。
もうぐっすり眠っているだろう。
左右に力なく垂らした両手にはすでに殺意を携えていたはずだった。
だが、枕元へ回り込み、眠っていると思っていた弟と目が合って、僕はその場で凍りついた。
弟はぼんやりと僕を見ていた。
押入れの奥に仕舞われていたはずの、よく僕があやす時に使っていたぬいぐるみを、タオルケットに包んで添い寝させていた。
薄明かりに浸された澄みきった双眸。
ああ、僕は、醜い。
誰よりも何よりも。
やり場のない絶望を怒りを悲しみを、腐臭のするような殺意にすげ替えて、まだこんなにも小さい弟に振り翳そうとした。
こんな醜い腐肉じみた塊こそ今殺すべきものじゃないか。
そして僕はまた病室のベッドの上で目が覚めた。
ああ、もっと剃刀の刃を深く皮膚に沈めるべきだったと、目を開くなり重苦しい後悔が胸に押し寄せてきた。
虚ろに天井を眺めていたらその声は届いた。
「おにいちゃん、おにいちゃん」
視線を向けるより先に、ベッドの手摺りに、軽い振動が伝わって。
鮮やかでない視界に泣きべそをかいた弟が写り込んで。
「ひとりにしないで」
昔とちっとも変わらない泣き顔。
「おいてかないで」
僕はお前を殺そうとしたのに、お前はまだ、僕を求めてくれるの?
こんなに罪深い醜い僕を求めてくれるの?
誰よりも何よりも可愛い弟。
やっと、心から、僕は笑いかけることができた。
父よりも母よりも愛してあげる。
誰よりも何よりも、深く、深く。
「ただいま」
アパートに帰ると弟はいつもと同じ笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり、兄さん」
「今日は洗濯物、多かっただろう」
いつもありがとう。
カレー、今から作るから、勉強か一眠りするといい。
「今から寝たら朝まで眠っちゃうよ」
弟はそう言って笑う。
いつの間にか僕の背丈を追い越して、泣き癖のひどかった幼少時代とは見違えるほど、弟は凛々しく成長した。
見上げる度に感慨深く、つい、清らかな眼差しを紡ぐその双眸に見入ってしまいそうになる……。
弟が部屋に入り、着替えを済ませた僕は夕食の準備にとりかかる。
明日の夜にも回せるよう、深鍋で玉ネギを炒め、人参とジャガイモを追加し、火を通していた牛すじを入れる。
ルーは中辛にした。
煮込む間にブロッコリーを茹でて簡単なサラダを作る。
セットしていたご飯が炊き上がり、炊飯器から甲高いメロディが流れた。
カレーも出来上がり、まな板や包丁などを洗い、散らかっていたシンクを片づける。
後は食器を用意して盛りつけるだけ。
食器棚の戸を開いて、皿をとるより先に、奥にあるカッターナイフをまず手にすると、片づけたばかりのシンクに置いた。
ワイシャツの袖を肘までたくし上げていた左腕からリストバンドを外す。
そこには、九年前に自ら深く刻みつけた傷跡が、ある。
その周囲には夥しい蚯蚓腫れがひしめき合っている。
カッターナイフの刃を引き上げると、左手首を鍋の上に翳し、無数に重なり合う傷跡の上に切っ先を走らせた。
これは贖罪。
誰よりも何よりも愛する弟を殺そうとした兄の罪咎を罰するための自傷。
そして、僕を、得てほしい。
その血肉の一滴になりたい。
「いただきます」
end
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