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きつねへ婿入り/擬人化きつね←兄←弟
祖父が死んだ。
昼下がり、いつものように昼寝について、そのまま帰らぬ人となったらしい。
翌日、僕は中学校を休んで、両親と高校生の兄と一緒に遠くの田舎にまで出かけた。
長い片道で、フェリーに乗って曇り空の下、薄暗い海を渡る。
兄は一人甲板で風を浴びていた。
普段よりも大人に見え、何だか、白々しい他人のようにも感じられた。
この兄は、よくぼんやりする人であった。
食事をしている時も、テレビを前にしている時も、時々、視線は何もかもを貫いて、そこにないものを見つめていた。
長い道程の末、離島にある祖父の家に着いてから、兄のその傾向は激しさを増した。
棺に花を入れる時も、兄は、そこにあるものを見ていなかった。
両親や周りの親族は気づいていなかったが、僕にはわかる。
悲しい、なんて横顔じゃない。
死んでしまった人への餞にしてはきつい眼差しだった。
葬儀が済むと、次は火葬場で、漆黒の人々は小波のようなか細い声で話を交わしながら、次から次へと大きな和風家屋を後にしていった。
漆黒の集団から兄が消え失せている事に気がついたのは、父親にその所在を問いかけられた時だった。
胸騒ぎがする。
いつにもましてぼんやりとしていた兄の横顔のせいだろうか。
僕は家の中に戻り、そこに兄がいないとわかると、苛立っている父親に一声かけて付近一帯を探してみる事にした。
空はまだ曇っていて、木立ばかりの土地を物憂げに見せている。
背中で数台の車がエンジンをふかす音を聞いて、早く兄を見つけなければと思った。
色褪せた桜並木の葉が風に弄ばれてひらひらと舞っている。
枯れた木々は力なく梢を垂らし、どこかで猫が掠れた鳴き声を上げる。
この田舎を訪れるのが本当に久し振りである僕は、どこへ続くのかわからないひび割れた道路の上を真っ直ぐに歩んでいた。
そして、ふと向けた視線の先にそれが現れて、立ち止まり、息を呑んだ。
朱色の鳥居が佇んでいた。
稲荷神社だ。
階段が延々と続き、朱色の鳥居も上へと連なっている。
まるで異界に通じているような、この世界から切り取られたみたいな空間だった。
僕は喉を鳴らし、足を動かす。
一歩進むと共に、逆に、僕の心の目は蓄積された記憶を遡り、幼い頃の思い出を探しさまよう……。
猫が車に轢かれて死んでいた。
僕の手を離した兄は、ぼろぼろの亡骸を両手に抱くと、しばらくそこに立ち尽くして冷えた体温をその手に感じ取っていた。
「どうしたの?」
小学校に入ったばかりの僕は、兄のシャツの袖を引く。
夕方なのに帽子を被った兄は、何度か瞬きして、曖昧に頷き、歩き出す。
「お兄ちゃん、それどうするの?」
「埋めるよ。ほら、上に神社がある。あそこに埋めよう」
蜩が鳴いている。
吹く風は心地よくて、でも辺りは宵のあやしげな闇に浸食されつつあり、曲がり角に設置された常夜灯が覚束ない明かりを生んで、ただ誰も来ぬ道を照らしている。
「あ、狐だ」
随分と長い階段を上りきったら、稲荷神社の使わしめに出迎えられた。
狐の像である。
背の高い台座に行儀よく座って、僕達をじっと見下ろしていた。
奥には古臭い社と賽銭箱がある。
辺りに人影は見当たらない。
茜色の空を泳ぐカラスの羽ばたきが聞こえてきそうな程、静まり返っている。
広い境内は鬱蒼とした茂みに取り囲まれていて、茂みの向こうには物々しい針葉樹林が広がっていた。
「どこに埋めるの?」
僕は兄を見上げる。
兄は、黙ったままでいる。
兄の目線を辿って、僕は、其れを見つける。
今まで誰もいなかったところに、其れは立っていた。
白っぽい単衣の着物を纏い、長い帯を締めている。
今にも肩に届きそうな前下がりの髪は真っ黒で、蒼白な額が覗いており、吊り上がった切れ長な瞳が、睨むように兄を見据えている。
狐の台座にもたれていた其れは、剥き出しの足で、石畳の上を大股で歩いてこちらへやってきた。
「汚い」と、其れは少年の声で言った。
そして兄が持っていた猫の死骸を奪うや否や、茂みの向こうへ放り投げた。
「カラをどうこうしたってどうにもならんさ」
尖るように突き出た鎖骨に、華奢な手首、細い五指。
その手から遠ざけるように、兄は自分の背後へと僕を追いやる。
そんな兄の身構えを目の当たりにして其れは笑った。
「手の汚れた子。お前は不浄だよ。それで家に帰るのかい?」
其れは、しゃがみ込んで、兄の手をとった。
赤黒い血で汚れた手を、まだ幼い、子供の手を。
それに紅の唇を近づけ、滴るように瑞々しい舌先で、其れは幾度となく柔い肌を嬲って血を舐め取った。
まるで獣のような息遣いだった。
兄の背にしがみついていた僕は戦慄した。
兄も怖さの余り震えていた。
兄から離れ、其れはもう一度笑い、言った。
「もう一度ここへ来たら、誰の手も届かないところへ、お前を攫ってやる」
階段を一段上る毎に、思い出は少しずつ確かに色鮮やかに蘇り、頭の中にかつて見た光景が綴られていく。
忘れていたというより消し去ろうとしていた。
非現実的で、怖くて、悪夢そのもののような出来事だったから。
そして、成長するにつれて、この田舎を訪れなくなり、束の間の思い出は記憶の裏側に完全に閉じ込められたはずだった。
僕は足を止めた。
階段を上りきり、視界に写ったのは、境内の中央で跪いた兄の前に佇むあの人だった。
白い単衣姿で、切れ長の目を瞑り、兄のその髪をゆっくりと撫でていた。
兄は震えている、でも、それは怖さからくるものではない。
きっと、そうだろう。
頼りない背中に回された兄の手は、以前と少しも変わらないあの人と違って、大きく成長したのだから。
兄はとり憑かれた。
恐怖はやがて想いと化し、四六時中、虚ろに求めた。
此の世のものでない腕に抱かれたくて堪らなかったのだ。
僕は、二度と振り向かない兄に、其れに、背を向けて、祖父を見送りに曇り空の此岸へと降りていく……。
end
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