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恋鬼/弟×兄/シリアス

 あの時の彼女の様子を今でもよく覚えている。  目の当たりにして以来、片時も忘れられずに引き摺ってきた記憶。まだ幼い子供の頃だったのに、脳裏に深く刻まれてなかなか離れない。まるで執拗な呪いのように、色褪せず、瞼の裏に棲みついている。  弟が生まれて間もない頃だった。  昼寝をしていたら、ふと、目が覚めた。  すぐそばで彼女が子守唄を口ずさんでいた。  しかしそれは自分に向けられているものではない。揺り篭の中で眠りについた弟に安らかな夢を見せるため、跪いた彼女がか細い声音で歌う寝物語だった。  その声が不意に途切れた。  生温い空気が背中に伝わり、起き上がって背後を見てみると、揺り篭を間近に見下ろす彼女が視界に入った。  彼女は弟の小さな指をしゃぶっていた。  その眼差しは、まるで飢えた獣。  目の前に横たわる無防備な肉塊に全神経を奪われて、身動きできず、ただ食い入るように凝視せざるをえない鎖に繋がれた獣だった。  その獣がこちらの視線に気づいた。  声も出せずに泣いていたら、彼女は、ふらりと立ち上がった。弟はまだ眠ったままだ。ひどく安らかな寝息を立てている。まるで部屋の中に満ちた異様な雰囲気を際立たせるかのように。 「ごめんね」と、彼女は言った。そして一粒の涙を流し、背を向けて薄暗い部屋を出ていった。  その日に彼女は亡くなった。  家の浴室で自ら命を絶ったのだ。  自分の歯で手首の皮膚を噛み千切り、動脈を引き裂いて。 「父さん、兄さん、おはよう!」  朝の食卓に明るい声が響く。親父は新聞から顔を上げずに返事をし、トーストを齧っていた俺だけそちらに目を向けた。  皺だらけのパジャマ。寝癖のついた髪。そんな寝起きの姿でも心の底から綺麗だと思える弟。 「おはよう」 「兄さん、今日一限からだよね? ちょっと待っててね、急いで準備するから途中まで一緒に行こう!」  そう言って洗面所に駆け込んでいく。俺の向かい側で新聞を畳んだ親父はため息をついた。 「来年高校に上がるっていうのに、いつまで経っても落ち着きがないな」  肩を竦めながらも親父の顔はどこか嬉しそうだった。 「ああ、それからな、今日は会議で遅くなる」 「俺、今日はバイトないから講義終わったらすぐに帰るよ」 「そうだな、それがいい。ちゃんと戸締まりしておけよ。台所の裏口も玄関の窓も」 「わかった」  二十歳にもなる大学生の俺に親父が戸締まりを真剣に促すのには理由がある。先週、この団地内で殺人事件があったからだ。  犯人はまだ捕まっていない。 「兄さん、就職についてもう考えてたりする?」 「まぁ、ぼちぼち」 「遠くに行ったりしないよね?」  バス停までの道程を弟と並んで歩く。俺より背が高く、詰襟が嫌味なくらい似合う弟は容姿端麗である上に人当たりがいい、学校や近所での評判だっていい。 「兄さんまで僕のこと置き去りにしたりなんかしないよね?」  弟は俺を見下ろして笑った。  犯人は弟だろう。  俺はそう思う。  去年、そして五年前、弟と同じ学校の女の子が殺された。どちらも犯人は捕まっていない。  女の子達の首から下も見つかっていない。 「今日は父さん会議だし、夜ごはん、どうしようかな」  親父と彼女は互いに再婚だった。  俺は親父の連れ子で、二人から生まれたのが弟だった。 「なに食べようかなぁ」  弟はあの女の血を引いている。 end

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