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美しい薔薇には棘どころか牙がある-2

やばいかもな。 人命を救ったとは言え、プロボクサーの道が断たれかねないことをやってしまった。 翌朝、新聞、テレビ、ネットニュースをざっとチェックし、昨夜の出来事が事件として報道されていないことを確認してから登校した。 授業中、翔汰朗の脳裏に浮かんできたのは倒れていた男のことだった。 気絶していたみたいだったけど大丈夫だったのか。 出血もしていた。 刺殺死体が出たなんて記事もなかったから命に別状はなかったんだろうけど。 その日、翔汰朗はろくに授業に集中できなかった。 殺傷能力豊かな凶器を前にした興奮、素手一撃で二人の人間をダウンさせたことへの興奮。 何度も掌に蘇る生々しい感触にアドレナリンは上昇しっぱなし、気が付けば放課後になっていた。 傍目にも今日一日様子がおかしかった友達を心配して集まってきたクラスメートに囲まれ、「別に」と誤魔化して、しかし脳内では色んな興奮が混沌とせめぎ合っていたところへ。 「すみませーん、尾瀬センパイいますか?」 三年教室を訪れた後輩女子の呼びかけも見事にスル―された。 「またファンから差し入れじゃね?」 「お、かわい」 「ショータ、行かねーの?」 「うわ」 「なにあれ」 「あんなセンセェいたっけ?」 「スカウトかな?」 浮ついていた翔汰朗でもさすがに周囲のクラスメートの異変に気が付いた。 「お、いたいた。翔汰朗クン、見っけ」 目を向ければ。 確かにかわいらしい後輩女子の背後に。 教師にはとても見えない、肌蹴たスーツにゴールドネックレス、サングラスをかけた美人男が立っていた。 昨日の人だ。 末恐ろしいまでの女顔である彼の名は漣麗人(さざなみれいと)といった。 母親につけられた名前に相応しい、三十二歳の男にして誰もが認める美貌の持ち主だった。 「キレッキレなあのパンチ、腹からダラダラ血ぃ流してるのも忘れて見惚れたけんね」 「……はぁ」 「いきなり雰囲気変わったゆーか。なー? 草むらにこっそり身ぃ潜めてた獣が牙向いて飛びかかる、そんな感じしたん」 「……はぁ」 九州から進出してきた特定危険指定暴力団、黒天組(こくてんぐみ)直系の影山組若頭。 通称イバラ姫として対抗組織からマークされている過激派の男。 ちなみに現在、翔汰朗は革張りのソファが座り心地抜群な黒塗りの外車に乗っていた。 乗せられた、というべきか。 この人もヤクザだったのか。 俺、これからどうなるんだろう。 「すみません、指だけは」 「んー?」 「俺、プロボクサーになるつもりなんで。だから指だけは」 隣でゆったり寛いでいた麗人は翔汰朗の言葉に……噴き出した。 「命の恩人に指詰めなんかさせんし」 スキンヘッドの舎弟が黙々と運転する中、麗人は翔汰朗に笑いかけた。 「すーぐわかったけん。あんなキレッキレのパンチ繰り出す制服着たコ、この辺おるかなー、ちょっと探ってみたら。プロ目指す高校生ボクサー、新聞バーン、て」 何のお手入れもしていないのに艶やかに色づく唇を三日月に歪め、麗人は、膝上に置かれていた翔汰朗の手に触れた。 力強く浮き出た間接を長細い指がツゥゥ……と辿る。 「男らしい拳しとる」 182センチ、美容師の姉に練習台として染められた髪、男前に整った顔立ちの翔汰朗が女子と初めてお付き合いしたのは中学二年生の頃だった。 これまで六人彼女がいたが全て長続きしなかった。 あまりにもドライな性格の翔汰朗に付き合いきれず、外見に惹かれて告白してきた彼女達は自ら離れて行った。 「プロになると、夢なん?」 いやに意味深に手の上を這う白い指先。 「特に夢ってわけじゃ、ない」 自分にできることがボクシングぐらいだったから。 プロになって新人王にでもなって有名になれば食べていけるかと。 他には何もないから。 「何もないって、んなバカな。男前やし」 ゆうべの翔汰朗クン、肉食獣まんまやったけんね? 急に髪を引っ掴まれた。 少し驚いて目を見張らせた翔汰朗の頭をぐっと固定し、麗人は、今は乾いている双眸を間近に覗き込んで囁いた。 「飢えとったみたいで。俺の血も肉もあげたい思った」 そこで車が停まった。 翔汰朗の自宅前だった。 「バイバイ、翔汰朗クン。また会おーで」

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