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美ボイス刑事さん、いらっしゃあい!-2
「……あれ?」
我に返れば明かり一つ点けていない1DKの自宅に突っ立っていた安芸。
記憶がすっぽり抜け落ちているし、全身が恐ろしく酒とタバコくさい。
初めてのことじゃない。
よくあることだ、今更驚いてなどいられない。
「……寝るか」
明日は非番の安芸、風呂は朝からでいいかと、ネクタイを外してスラックスと靴下を脱ぐと居酒屋の臭気染みつく体のまま寝室へ向かおうとした。
外灯の光だけが窓辺に滲む部屋の中でふと安芸の鼻を掠めた香り。
気のせいかな、そう思って開けっ放しになっていた寝室のドアをさらに大きく開けて中へ。
水をコップ一杯飲みたい気もしたが、もういいやと、ふらつく足取りで角に設置したベッドへ。
ダイニングと変わらない薄闇に浸るベッドで横になった周防を覗き込み、ああ、周防さんは寝顔も美しいんだなと、つい口元を綻ばせ……。
「え?」
え?あれ?え?え?
どうして周防さんが俺のベッドで眠ってるんだ?
どうして周防が安芸のベッドで眠っているのか、経緯を簡単に説明するならば。
飲み会で周防がダウンし、独り身で一番家が近い安芸にその介抱が任された、ということだ。
自分のベッドで眠る周防を目の当たりにした瞬間、心身に引き摺っていた酔いが一気に醒めた安芸。
『主任、起きそうにないし、自宅わからんから。お前独身寮出て今はアパート暮らしだろ? 自分ちにお届けしてちゃんと休ませろ』
『っていうことで、いいな、安芸?』
そうだ、先輩方にそう言いつけられて、俺は……声をかけても揺すっても起きない周防さんに肩を貸して、歩きで、確かここまで運んだ……。
ああ、だからか。
周防さんの香りが肩の辺りからするのは。
よく勃たなかったな、俺。
床に跪いた安芸は眠る周防を見つめた。
どうも周防はスーツを上下きっちり着用したままのようだ、ネクタイも緩めていない、ワイシャツの第一ボタンすら開かれていない。
整い過ぎた寝顔。
本当に眠っているのだろうか。
「……周防さん」
震える声でそっと呼びかけてみても返事はない。
服装と反して普段は適度にセットされている髪には多少の乱れがあった。
凛と涼やかな双眸を閉ざす瞼にはらりとかかっている。
周防さん、周防さん、周防さん。
起こさないよう心の中で安芸は何度も上司を呼号した。
アルコールで火照っていた体が熱情に炙られるような、ひた隠してきた想いが捌け口を求めて皮膚の内側で暴れ回っているような。
周防さんにキス……したい。
ほんの一瞬でいいから、その唇に唇で触ってみたい。
キスしたい。
執拗に高鳴る胸に理性を惑わされて不埒な欲望に勇気づけられた安芸は。
音を立てないようベッドに手を突いて。
想い人の睫毛の長さを改めて思い知らされながら。
ずっと恋い焦がれていた上司にキスをした。
最初で最後の過ちとして。
胸の奥底に仕舞う一度限りの、法の番人にあるまじき小さいながらもれっきとした罪。
そうして束の間の禁忌に陶然と身を委ねた後に正気に戻ってみれば。
周防と目が合った。
「安芸君」
「あの、すみません、主任、その、」
「今、何をしていました」
寝起きとは思えない真っ直ぐな視線と冷ややかな声色でもって詰問されて安芸は竦んだ。
罪を犯した罰に見合う冷徹な制裁。
身が引き裂かれそうな。
この人に軽蔑されたら、嫌悪されたら、俺はおしまいだ。
「あの、本当すみません! 俺……酔ってて……ふざけて、」
「ふざけて?」
「ッ……はい、そうです……今日は、飲み過ぎてしまって……つい……」
必死に笑顔で取り繕い、弁解し、本心を隠す。
本当はほしくて堪らない想い人への気持ちを自分自身で踏み躙る。
……おしまいになった方がまだ楽なのかな……。
「そうですか」
上体を起こしていた周防の眼差しが和らいだ。
「ッ……本当にすみませんでした!」
「いえ。こちらこそ。君のベッドを占領してすみません」
「あ、そうだ、お水ッ、お水持ってきます」
居た堪れずに少しでもいいからこの場から離れたいと願った安芸、回れ右をして寝室を出ようとした。
その足の自由を拘束具さながらに奪った呼び声。
「安芸君」
引き止められた安芸は振り返る。
周防は微笑んでいた。
「私もまだ酔っているんです」
飾り気なく骨張った長い指が鉄壁のネクタイに緩やかに纏わりついたかと思うと、柔らかな音を奏で、緩める。
「来なさい」
周防の鉄壁が崩れるのを、安芸は、初めて見た。
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