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SはSを愛す/真性S×S/不倫

ああ、うるせぇ、と水月(みづき)は思った。 「パパー、今日のおゆうぎね、花梨ね、ウサギさんするの、ウサギのダンス」 「そう。ウサギさん、ぴょんぴょん跳ねるのかな」 「うん、ぴょんぴょんぴょーんって、ジャンプするの」 父親に抱かれた幼稚園児の娘がその腕の中で足をばたばたさせ、水月の背中に靴を履いた足がぶつかった。 「ああ、すみません」 娘の粗相に気づいた父親がすぐさま詫びてきたが角に立つ水月は振り向きもしなかった。 エレベーターに乗っている、こんなたった短い間、大人しくできないもんかな。 エレベーターがマンションの一階に着くと水月は親子よりも先にホールへ出た。 「ウサギさん、お月様で何するのかな」 「お餅つくの!」 背後で聞こえてくる会話にため息を噛み殺し、水月は、冴え冴えとした双眸をさも不機嫌そうに細めつつ爽やかな朝に身を投じた。 私立大擁する医歯薬学総合研究科の病理学教室に技能補佐員として水月は勤めていた。 白衣を羽織り、癖のない前髪を細長い指で押さえて光学顕微鏡のレンズを覗く姿はなかなか様になっている。 危険な試薬を扱う際は薄手の手袋をはめ、ゴーグルとマスクを顔に装着して排気装置のドラフトチャンバー内で作業するのだが、少しきつめの双眸がより冷ややかに際立ち、妙な色香を醸し出したりする。 白衣の裾を靡かせてキャンパスを横切れば女子学生の視線を自然と集める。 いや、彼に関心を抱くのは女性だけではなかった。 「水月君、0.1Mのリン酸バッファー、つくっておいてくれるかな」 実験助手の瀬上に肩を叩かれ、ドラフトのスイッチを入れたまま、水月は眉根を寄せて聞き返す。 「今、何か言いました?」 つっけんどんな性格で人付き合いの悪い水月は実験室で一人黙々と作業できるこの仕事が割りと好きだったりする。 だから中断されれば教授だろうと明らかに機嫌を悪くして、相手をじろりと見る癖がある。 二十四歳の水月より年上である三十代の瀬上は冷ややかな水月の態度に密かに背筋をゾクゾクさせながら、同じ台詞を繰り返した。 「……わかりました」 ああ、水月君、君に踏まれたらどんなに気持ちいいだろう……。 「……まだ何か用でも? オスミウム、早く蓋したいんですが」 その棘のある目つき、堪らない……。 「あ、ついでに実験台のパラフィルムとってくれますか。瓶の蓋、密封するので」 君の命令なら喜んで従うよ……。 瀬上が出て行き、扱いに気を遣わなければならない試薬の容器蓋を専用のテープで固定し、冷蔵庫に仕舞って、水月は手袋とマスクを我が身から引き剥がす。 壁際の施錠された棚には硝酸や塩酸といった毒劇物も保管されていた。 その棚を掌でなぞって水月は思った。 あのクソムカつく馬鹿にクリスマスプレゼントとして丁寧にリボンを結んで送りつけてやりたい、と。 事務的な仕事も担っている水月はコピー用紙の在庫をとりに基礎棟一階の事務室に向かった。 奥の倉庫で職員から受け取り、なかなか重たいコピー用紙の包みを両腕に抱えて事務室を後にしようとする。 両手の塞がる水月の代わりにドアを開けてくれたのは総務の中原主任だった。 「……すみません」 水月はちらりと横を見て礼を述べる。 中原はわざわざエレベーター前までついてくるとフロアの階数ボタンを押し、エレベーターがやってくるまで水月の横で待っていた。 「……どうも」 愛想笑い一つ浮かべず、あくまでも冷めた眼差しでい続けた水月をエレベーターの扉が閉じられるまで見送って、中原は儚い夢想を抱く。 色の白いあの人はヒールが高めのボンデージブーツと撓る鞭が誰よりも似合いそうですね……。 一方、水月は上昇する狭い箱の中で重たい荷物を見下ろしながら思った。 これくらいの重さなら、頭上から落とせば、あいつの首の骨も折れるだろうな、と。 試験管やビーカーの洗浄中に業者がやってきた。 注文していた試薬を持ってきた医療会社の営業部、川久保は笑窪が特徴的な笑顔で水月に頭を下げる。 「では、こちらにサインをお願いします! あ、最近、寒くなってきましたね! 水月さんは風邪とかあんまり引かないですかっ? 俺、すぐ鼻にきちゃうんですよねぇ、だからティッシュは手放せないです!」 水月は「そうですね」や「へぇ」などという相槌を一切打たずに「人間なんで風邪くらい引きます」とだけ答え、年下の川久保に低温の声色で言った。 「どうも。お疲れ様です」 水月さん、今日もクールだな。 この人ってどんな風に彼女を……ああ、何考えてるんだ、俺ってば! 「どうも! ありがとうございます!」 川久保があたふたと去り、実験室の流し場に戻った水月は蛇口を捻り、ガラス器具が浮かぶ桶に水を放出する。 泡立てたスポンジでビーカーを洗いながら水月は思った。 水桶に頭を押しつけたらあいつは何分で息絶えるだろうか、と。 あいつの惨事を思い描くのは何よりも愉しい。 これは愛情にも似た殺意なのか。 殺意にも似た愛情なのか。 ジャケットのポケットに両手を突っ込み、マフラーに首を窄め、イルミネーションと人で溢れる街の中を足早に進む。 裏通りに出、人足の減った舗道を突き進むと、路上駐車していたセダンに無言で乗り込んだ。 運転席にいた男もまた無言で車を発進させた。 会話もなく流れる音楽もラジオも皆無、ただ外の喧騒だけが沈黙の車内を通り過ぎていく。 間もなくしてシンプルな外観のホテルにセダンは滑り込んだ。 部屋案内のパネルもろくに見ずに普段使用している部屋を選んでカードキーを受け取り、通路を進む。 軽薄な部屋に足を踏み入れた瞬間、水月は、背中から思い切り壁に叩きつけられた。 水月の両手首を安っぽい壁紙に縫いつけた男はすかさず薄赤い唇を奪う。 慈悲なき手つきで容赦なく手首を締め上げ、両足の間に片膝を割り込ませると、ジーンズ越しに強めに股間を擦り上げてくる。 口腔を蹂躙する舌に水月は噛みつこうとした。 「駄猫はお仕置きをご所望かな」 よからぬ害意を察して先に顔を離した男は自分を睨みつける水月に薄笑い。 手首の骨を軋ませる握力の容赦なさに水月は舌打ちし、好き勝手に荒らされた口元を歪め、吐き捨てた。 「ウサギさんみたいにぴょんぴょん踊ればいいわけ、パパ?」

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