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君と貴方と彼とハイド・アンド・シーク-2
「雨海木……いてくれてよかった」
ジキルの椎亡は血がついたままの手で雨海木の部屋のドアをノックし、現れた彼に微笑みかけた。
「俺、また……誰かを殺してしまった」
壊れそうな微笑を浮かべたまま椎亡は切れ長な双眸から涙を零す。
雨海木は彼の肩を抱いて中に入るよう促し、ドアを閉めて鍵をかけた。
「とりあえず血を落とそう」
「……どうやって?」
「俺が洗ってやる」
バスルームに移動して防水のカーテンを跳ね除け、乾いたバスタブの中に椎亡を座らせる。
自分は彼の背後に回り、微かに震える細身の体を抱き込むようにして正面の蛇口を捻った。
「また何も覚えていないんだ……綺麗な爪の色を見た以外……何も」
「そうか」
「……俺、自首を……」
「必要ない」
バスタブの底に水が飛び散って足元が濡れていく。
赤黒い血がこびりついていた指に指を絡め、雨海木は項垂れる椎亡に言い聞かせる。
「お前は何も悪くない」
「だって……殺しているのはこの手なのに」
「お前の意思でやったわけじゃない。お前が罪を背負う事はない」
「……だけど……」
まだ何か言いたげだった椎亡の唇を、雨海木はやや強引に背後へ顔を傾けさせて、塞いだ。
驚いた彼は身を引こうとする。
それを許さずに雨海木は自分より非力な体を抱き寄せた。
流れ出る水が排水溝へ鈍い音を立てて吸い込まれていく。
蛇口を捻る間も惜しく、雨海木は椎亡を抱きかかえてバスルームを後にし、ベッドルームへ彼を運んだ。
「忘れろ」
ベッドに彼を寝かせた雨海木は半裸となって未だ震えるその体に覆い被さった。
目尻や耳元に小刻みなキスを落としつつシャツを脱がしてベルトを緩める。
しぶとく続けられる抵抗は片手で容易に封じることができた。
「俺が忘れさせてやる」
「忘れても……またきっと殺してしまう……ッ」
「その時はまた俺のところへ来たらいい」
椎亡は眉間に苦悶の皺を刻んで雨海木の鋭い眼を見上げた。
「……そんなの……」
悪循環だ、と小さな呟きが洩れる。
もう何も聞きたくなかった雨海木は強張る唇に唇を重ねて舌先でもって言葉を押し戻した。
濡れた両手をベッドに縫い止めて深く長く口づける。
合間に紡がれる吐息が微熱を得てきた頃、裸にし、見る間に屹立した己を椎亡の中へおもむろに沈めた。
「……ッ」
先端を繋げただけで椎亡は下腹部を過敏に痙攣させた。
額に汗が滲む。
片頬をシーツに押しつけると雨海木から視線を逸らしてきつく唇を噛む。
「力抜け」
「や……無理……嫌だ、もう……」
「椎亡」
また半ば強引に顔の向きを変えてキスをした。
萎えた彼のペニスを緩々と扱き、慎重に肉の狭間へ隆起を押し進めていく。
頑なに閉ざされた唇から離れて鎖骨を過ぎ、淡く色づく胸の突端に舌尖を絡ませる。
「あ……!」
涙ぐんだ椎亡の切なげな声音が雨海木の欲望をこれでもかと煽る。
雨海木は暴走を抑えるため一度深呼吸し、淡い色合いの突起を唇と舌で隈なく愛撫しながら緩やかに律動した。
「あ……だめ……っ……雨海木……ッ」
ああ、もっと深く深く繋がりたい……。
今度は呼吸を止めて苦しげに眉根を寄せる椎亡を上目遣いに見やった。
いっそ殺人などできぬようここに閉じ込めて誰にも会わせないようにすればいいのか。
「愛してる、椎亡」
目を瞑っていた椎亡はその言葉に双眸を見開かせた。
溜まっていた涙の雫がこめかみへとゆっくり伝い落ちていく。
「……雨海木……」
誰よりも、何よりも。
いつだって不完全なお前を愛している。
「……椎亡」
椎亡は雨海木の雄々しい首筋に縋るように抱き着いてきた。
律動が次第に早まってベッドが軋む程に揺さぶられても、その両腕を解かずに声を殺し、その身を明け渡した。
救いなんていらないだろう?
雨海木は絶え間なく揺れる椎亡を直に痛感しながら密かに彼へ問いかけた。
罪深い影を引き摺って、気がつけばもう女を殺していて。
どこかの病院に入って拘束でもされたいのか?
影が犯した罪を背負って償うとでも?
そんなの俺は御免だ。
狂っても壊れてもいいからお前をそばにおいておきたい。
「……俺を独りにしないでくれ、椎亡……」
「被害者はダイナーのウェイトレス、また例のあれだ」
人気のない街外れの河川沿い、一台の車を中心にして立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、警官や鑑識の人間がものものしげに行き来している。
空は驚く程に快晴で青く澄み渡っていた。
「女性に対して何かしら嫌悪や憎しみを抱いているとしか思えない」
殺人課の刑事二人が車内を覗き込んでいる。
先に来ていた一人は遅れて現場へやってきた同僚に首を左右に振ってみせた。
「そして犯人は間違いなく異常者だ。指を全て切断して口に突っ込むなんて常人にはまるで無意味な行動だろう? もうこれで六人目だ」
若干後ろに引き倒された運転席の無残な遺体に刑事の一人は始終痛々しげな表情を見せており、やりきれなくなった彼は視線を変えて周囲を見渡した。
遅れてやってきたもう一人はどこか冷めた眼差しで車内を眺めている。
実際、その刑事は遺体を見てはいなかった。
「もしくは特異な愛情かもな」
現場状況を把握しようと今一度辺りを注意深く見回していた刑事は振り返った。
「何か言ったか、雨海木?」
問われた雨海木は首を左右に振った。
窓ガラスに写る同僚は心持ち首を傾げ、再び物寂しい周辺に視線を走らせた。
ジキルとハイド。
あれは二重人格の男の話だったか。
結末はどうなるのだろう?
「なぁ、椎亡。ジキルとハイドの話、お前は知ってるか」
雨海木に名前を呼ばれた同僚の椎亡はその問いかけの内容に眉根を寄せた。
「いいや、読んでいないから詳しくは……犯人は二重人格の可能性があると?」
雨海木はまた無言で首を左右に振った。
椎亡は「その線は有り得ない話じゃないな……乖離性障害……精神的に不安定で日常生活に多大なストレスを抱えている……感情失禁故の凶行……」と、顎に手をやり、犯人像の分析に集中し始めたようだった。
この事件の犯人は二重人格じゃない。
雨海木は車内に残された被害者と窓ガラスに写る椎亡が二重になるのを見た。
犯行を繰り返すハイド。
まるで覚えのない殺人に苦悩するジキル。
そしてハイドとジキルを、過去の亡霊である実の母親を忘却した椎亡。
お前を誰よりも愛する俺だけが知る秘密だ。
end
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