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家事を捨てよ主夫に情事を-4

つい先ほどまで田中皐月(25)はとても上機嫌だった。 何故ならば。 「秋生さん、こんばんわ」 禁じられた秘密の恋仲にある秋生(34)と会う約束をしていたからだ。 秋生にとって妻、皐月にとって上司である女部長が出張で家を留守にしており、ここぞとばかりに逢瀬の予定を入れていたわけで。 速やかに残業を終えて夜八時過ぎに退社し、一端帰宅してシャワーを済ませて着替え、タクシーで秋生の家へ向かった。 到着したのは夜十時前。 静まり返った高級住宅街にて慎重に門扉を開け閉めし、段差を上り、インターフォンを鳴らす。 扉はすぐに開かれた。 まるで今か今かと待ち構えられていたかのように。 俯きがちな秋生は浮かれていた皐月のテンションを見事にポキリと手折るような第一声を放った。 「もう終わりにしよう、皐月君」 夜の冷気に満ちた玄関。 明かりはなく外灯に照らされた外よりも暗い。 廊下やリビングの照明も落とされて家全体が薄闇に包まれているような。 「こんな関係、やっぱりいけないと思う」 念のため玄関ドアをロックしてスニーカーを履いたままの皐月と向かい合った秋生。 その目線は始終逸らされがちだった。 「このままずるずる続けても……お互いにとってよくない」 一見して真面目な好青年風の皐月と一度も目を合わせようとせずにどこか苦しげに言葉を続ける。 「今夜会うことにしたのは、このことを君に伝えたかったからなんだ……だからもう……帰りなさい」 余ったセーターの袖、そこから覗いた白い指先は微かに震えていた。 「二度とここには来ないでほしい」 夜の冷たさにいつにもまして色づいた唇から紡がれる言葉も弱々しげに波打っていた。 「私のことは全部……忘れなさい」 皐月は自分と視線を重ねることもなく俯いたまま別れを切り出してきた秋生をそれまでただ黙って眺めていた。 「秋生さん、震えてる」 不意に伸びた両手。 秋生の片手をとると、そっと包み込んで、皐月は息を吹きかけた。 「やっぱり。すごく冷たい」 「……皐月君」 「ずっとここで待ってたんですね」 外からやってきた自分よりも冷たくなっている秋生の白い手に皐月は頬擦りした。 秋生は何も言えずにキュッと唇を噛む。 冷たさをじんわり溶かすような彼の微熱に愛しさが込み上げてきて、懸命に、欲望に抗おうと。 「秋生さん」 両手を振り払われた皐月に呼号されて秋生は首を左右に振った。 「帰って、早く、今すぐ帰りなさい」 「部長から聞いたんですね」 「ッ……!」 「会社見学に来ていた社長の孫娘に気に入られて、交際を持ちかけられてるって」 「そ、そんなこと、私は」 「僕の昇進のために潔く身を引くつもりですか?」 「違う、私は、私は」 「じゃあ僕のことが嫌いになったんですか?」 今度は秋生の両手をとって皐月は問いかけた。 愛しい温もりに囚われた秋生はさらに項垂れた。 「僕のことが嫌いになった?」 俄かに濡れた長い睫毛。 瞬き一つすれば頬に零れた涙。 「……好き、皐月君……」 涙ながらに見つめられて、改めて秋生に告白されて。 皐月は満足そうに笑った。 「知ってますよ」 「……」 「交際の件ですが。丁重に辞退しました。だから貴方が気に病む必要なんかないんです」 「……」 「社長ですが。自分の孫がフラれたからと言って私情に左右されるような器の小さい人ではないんで。貴方が会社での僕の立場を気にする必要もないんです」 すっかり体が冷え切っていた秋生を皐月は優しく抱きしめた。 まだ涙を零している彼の髪をあやすようにそっと撫でてやる。 「本当、貴方って人は。罪深い主夫ですね」 「え……?」 「僕の気持ちも考えないで離れようとするなんて。自分勝手な主夫ですね」 そんな貴方も好きですけどね。 「でも罪深い主夫にはお仕置きが必要だね、秋生さん」

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