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鬼さんこちら、私のそばへ/男前上官×強気部下/大人ファンタジー

「お前が視界に入るだけで息が止まりそうになる」 茉莉(まつり)は涙で双眸を滲ませながらも目の前の男を睨みつけた。 乱暴に口づけられたばかりの唇が疼いている。 胸に湧き上がる動揺、疑問、そして紛れもない高鳴りを殺したくなる。 目の前の男もまた茉莉を睨めつけていた。 男の名は弖羅(てら)。 上官や部下、誰からも信頼されている、底抜けに明るい笑顔の似合う鋼の男。 誰もこんな弖羅の眼差しを知らない。 茉莉を除いて、誰も。 「血肉が軋んで、」 「ッ……弖羅隊長?」 「骨が音を立ててばらばらになって、」 「目の色、が」 「お前を喰いたくなるんだよ」 その昔。 大江山という山に女を喰らう鬼がいた。 柔らかく芳しき乳色の肢体を裂いては引き千切り、その世にも残酷な牙で依然蠢く新鮮な血肉を思う存分味わい啜っていたという。 彼の鬼は源頼光をはじめとする逞しき手腕共に成敗された。 鬼には二人の妻がいた。 姉妻は共に首を斬り落とされ。 妹妻は逃げ果せ。 鬼の子を身籠った女。 鬼と人の戦いは続いている。 千年以上の時を超えた今でも。 「きゃあああああ!!」 夜、静まり返った旧市街、肝試しにきていた若い男女グループの悲鳴が木霊した。 彼等の前に現れたのは二つの頭を持つ、体中に飢えた口を生やす、巨躯なる異形。 鬼族(きぞく)だ。 人食い種である鬼は新鮮な血肉を持つ生餌に嬉々として襲い掛かる。 闇夜を切り裂いた一閃。 ゴトリと落下した鬼の片腕。 迸る血飛沫。 突如として鬼と人の狭間に降り立った彼は構えた刀を振り翳し、咆哮を轟かせる鬼に止めの一撃を浴びせ、実に鮮やかに速やかに標的を討ち倒した。 「大丈夫か? 怪我はないか?」 インバネスを翻し、規定の制服である詰襟は息が詰まると中には襟シャツのみ、足の長さを際立たせる紐ブーツ。 たった今鬼を斬り殺したばかりの彼は腰を抜かしている若者に笑いかけた。 警察内部に設置された特殊高等警察、通称、特高(とっこう)。 対鬼族のため主に高い戦闘能力を有する精鋭が揃えられた組織。 彼はそこに籍をおく、討伐部門、<戌>部隊長の、 「弖羅隊長……っ」 遅れて駆けつけた部下達に、刀にへばりついた血を払って鞘に納め、弖羅は言う。 「遅いよ、副隊長」 「も、申し訳ありません……こら! 君達! この旧市街は立ち入り禁止ッ、しかも鬼族出没地帯だぞッ!?」 「さー帰ろっと」 「あ、ちょっと、弖羅隊長!?」 「処理班呼ぶの頼むな、ラーメン食って帰る」 真面目な部下はヤレヤレと苦笑してその場に残り、不真面目な部下は弖羅についていく。 「ラーメンおごってください、隊長!」 「お手頃低価格のスープのみ、なら奢ってやる」 「え~」 「ねぇ、明日来るんですよね? 新人?」 「明日? へぇ?」 「も~上官のくせに把握してないんですから~」 「女子ですかっ? ちなみにカワイイですかっ?」 「さぁな」 「本日付で討伐部門、討伐隊<戌>に配属されました、よろしくお願い致します」 初日から制服を卒なく着こなした新人の茉莉はこれまた滞りなく挨拶を済ませて一礼した。 男子は苦笑い、反対に女子は顔を輝かせている。 弖羅は。 一人だけすぐに顔を逸らした。 「弖羅隊長、今日からお世話になりま、」 「指示は副隊長に仰げ」 茉莉は驚いた。 弖羅の存在はアカデミーでも有名だった。 討伐数は類を見ない、そのずば抜けた戦闘力、アカデミー時代も優秀な成績を残して首席で卒業、謳われ続ける栄光と誇り。 それでいて驕ることもなく、上からは厚い信頼を、下からは尊敬と憧憬の念を抱かれている人格者。 そう聞いていた。 実際、部下から親しげに話しかけられて笑顔で接している弖羅を目の当たりにして。 『俺が守る』 かつて自分を救ってくれた、その姿を、その声を思い出して。 声をかけてみれば。 顔を逸らされて。 吐き捨てるように放たれた、冷たい、声。 十年前に救ったこどものことを覚えていない、それは十分にあり得ると覚悟していた。 数多くの人々を鬼族から救ってきた男なのだから、逐一記憶するのは至難の技だろうから。 だけど。 ひどくないですか? 初日、過酷な討伐部門に来たばかりの新人に向ける態度がコレですか? 「隊長、何か気の障ることでもしてしまったでしょうか」 その場から立ち去ろうとする弖羅に問いかけた茉莉だが。 弖羅は振り返ることもなく行ってしまった。 「どうしたんだろ、隊長」 「新人クン、何か恨みでも買ってるの?」 恨みなんか。 十年前、九歳の時、鬼族に殺されかけたところをあの人に助けられた。 命の恩人だ。 それが恨みを買う引き鉄になったとでも? 弖羅はそれからも新人の茉莉と自ら関わりを持とうとしなかった。 他隊員には笑顔で、砕けた態度で、いつも通りの部隊長を見せていたが、茉莉にだけは。 「弖羅隊長、あの」 「副隊長に聞け」 目を合わせようともしない。 ここでしょ気てすごすご言うことを聞くような茉莉ではない。 見た目は薄倖そうな見目麗しい成りをしているが、実は図太い性格、アカデミー時代はひもじい寮生活に耐えかねて厨房で盗み食いだってやらかした彼は上官に噛みついた。 「私に何か至らないところがあるのでしたら教えてくれませんか、隊長」 「……」 「避ける理由をお聞かせ願えませんか」 「……」 「弖羅隊長! あ、クソッ。また逃げやがったッ」 「どうどう、落ち着いて、新人クン」 毛を逆立てて怒る猫さながらに苛立つ茉莉に周りは肩を竦めてみせた。 広大な敷地を擁する特高本部<マヨヒガ>。 雑木林に囲まれて、まるで幽遠なる地に佇むような、巨大屋敷。 夜毎方々の警邏を怠らず、鬼族討伐の命が下れば警察車両で勇ましく馳せ参じる。 広い庭園に出た弖羅は池を跨ぐ橋の中央で真昼の月を仰ぎ見た。 薫風に緩やかに靡くインバネスの裾。 目許にかかる前髪がはらりと乱れて隠れた双眸。 長く連なる縁側から弖羅を見ていた茉莉はただひたすら解せずに上官を密かに見つめ続けるのだった。 新人にとって緊張の瞬間、最初の討伐命令が下った。 もちろん単身で向かうわけではない、7~8名からなる隊毎に行動、前へ出さずに後ろへ控えさせ、しばらくは実戦を目で覚えさせる。 それがまさか。 最初の出動で<百鬼夜行>に出くわすとは。 「隊長……!」 「間合いをとれ、下手に斬りかかるなよ」 <百鬼夜行>は鬼族が群れを成している、というわけではない。 百の鬼の力を持つ鬼、ということだ。 闇夜に溶けそうな漆黒の鬼族。 真っ赤な目がまるで灯火のように際立って見える。 2メートル強の体躯に纏うは重厚な深みを擁する武具。 鎧武者姿をした黒き鬼の手には一振りの長刀が握られていた。 ……この鬼は……。 『おかあさん……おとうさん……』 赤い水たまりに溺れるようにして横たわった、大好きだった父と母。 泣き叫ぶこともできないくらいの絶望。 世界が音もなく死んでいくような気がした……。 「新人ッッ」 茉莉は我に返った。 頭上に振り仰がれた鋭き白刃。 しまったーーーーー 真っ黒な鬼に振り翳された刃をただぼんやり眺めていた小さな茉莉の前に弖羅は現れた。 寸でのところで刃で刃を受け止め、全力でもって横に押し払う。 キィィィィッッン 『大切な人に守られたお前の命、次は俺が守る』 「邪魔だ、退け」 茉莉の目の前でかつての弖羅と今の弖羅が重なった。 過去の残像は現在の冷えた横顔に呑まれて、消えた。

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