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君想フ故ニ我アリ/元いじめっこ×元いじめられっこ

仕事に集中していたらいつの間にか定時を大幅に過ぎていた。 一階の事務室を出て外に降り立つとまだ日は高く、室内の明るさに馴染んでいた町田晋也(まちだしんや)は気だるそうに目を細めた。 学生がまだ多数残る医学部のキャンパスを足早に横切り、正門前に立つ守衛に挨拶をして緩やかなスロープを下る。 履き慣れた革靴は舗道に小気味いい音を奏でて柔らかな桜並木の薫風へと溶けていった。 ゴールデンウィークが終わったかと思ったら来週でもう六月か。 この分だとあっという間に夏だろう。 一週間分の夏期休暇も去年と同様、無駄に過ごしそうだ……。 晋也は医学部前の停留所でバスに乗った。 十五分程揺られ、人出の多い駅前で降りる。 途中、避けきれずに一人の通行人とぶつかった。 謝ろうと視線を向けたら中傷めいた言葉を先に吐かれ、睨みつけられた。 「すみません」 明らかに年下である茶髪の少年に速やかに詫びて晋也は歩行を再開させた。 明日は金曜日だ。 土日は休みだが、来月にアメリカで行われる日米合同の研究会議に本学の教授及び講師が複数出席するため、海外出張の書類作成で晋也は最近立て込んでいた。 月末が近いのでコピー用紙などの在庫確認もしなければ。 月初めには業者との契約更新の書類も経理に提出するので、そろそろ準備が必要だ。 来週に回すか。 とにかく出張関係の書類を先に仕上げて経理に回し、旅費を算出してもらおう。 晋也は交差点で立ち止まった。 夕食はマンションから近い惣菜屋の弁当で済ませるつもりだった。 大学時代から自炊が億劫で、ついつい持ち帰りや外食に頼ってしまう。 三十手前になっても未だ抜けきれていない習慣であった。 七時近い夕暮れだというのに蒸し暑い。 歩行者信号が青に変わり、晋也は他の通行人と共に歩き出した。 「……」 それまで所在なく泳いでいた晋也の視線が不意に鋭い強さを帯びた。 喧騒が、遠退いた。 視界の中心に据えられた彼以外の全てが一瞬にして寡黙な背景と化した。 向かい側からやってくる彼に釘づけとなった晋也は無意識にその名を呟いた。 「遥」 雨が降っていた。 放課後の校舎は静まり返り、どの窓も濁った空を写し出している。 木々の生い茂る裏庭では濡れた植物が濃厚な匂いを放ち、重みを帯びた灰色の空気に纏わりついていた。 少年は雑草が疎らに生える土の上にうつ伏せとなって倒れていた。 髪や制服は濡れそぼち、病的なまでに白い肌に張りついている。 色をなくした唇が微かに震えていた。 投げ出された左手の五指が時折痙攣して虚空を掻く。 突然、革靴を履いた片足がその左手を無情にも踏みつけた。 「動くな」 骨張った弱々しい手を詰るように踏む足に力を入れる。 少年は声を詰まらせた。 それまで物憂げに沈んでいた表情を歪ませて身悶え、唇に歯を立てた。 小さな悲鳴は緩やかな雨音により掻き消されていった。 「動くなよ、遥」 透明のビニール傘を差した晋也は少年を見下ろして笑った。 「町田さん」  まるで突拍子もない通り魔じみた回想の波に襲われ、横断歩道の真ん中で立ち竦んでいた晋也は我に返った。 十年以上も昔の記憶を垣間見ていた彼は目の前にいる人物とやっと目線を重ねた。 「町田さん、だよね」 相手は首を傾げるようにして晋也を覗き込んできた。 天然の、淡い茶褐色の髪がさらりと靡く。 夕日に染められた肌が瑞々しい艶を擁していた。 通行人が次から次に傍らを通り過ぎていく中、彼は晋也に笑いかけるでもなく淡々とその言葉を口にした。 「やっぱり、そうだ。よかった」 その瞬間、晋也は例えようのない違和感に心身を巣食われた。 よかった?  今、そう言ったのか……? 歩行者信号が点滅し始めた。 彼は立ち竦んだままでいる晋也の腕を遠慮なくとると、自分が来た道を戻って横断歩道を後にした。 バスが排気ガスを撒き散らして車道を走り抜けていく。 乱れた前髪を指先で軽く払い、彼は改めて晋也と向かい直った。 「僕の事、わかるかな」 覚えている。 十四年前、自分が徹底的に虐げた二つ下の下級生。 藤野遥(ふじのはるか)。 「藤野……だろ」 藤野遥は頷いた。 茜色を反射する眦の吊り上がった双眸が真っ直ぐに自分を見上げており、晋也は居心地の悪さを覚えた。 俺達は和やかに立ち話を交わす間柄ではないはずだ……。 「すまない、用があるから」 晋也は咄嗟に嘘をついた。 ここから早く去った方がいい、遥と一緒にいるべきでないと、頭の中で常に冷静に安全策を練るもう一人の自分が囁いていた。 「そうなんだ」 遥が心持ち身を引いた。 晋也はおざなりに別れの言葉を呟いてその場を離れようとした。 唐突に後ろから伸びてきた手が晋也の腕を思いがけない強さで掴んだ。 「明日、また会えないかな」 肩越しに振り返りながら、晋也は、西日に抱かれた邂逅を密かに呪った。

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