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君想フ故ニ我アリ-2

その男子生徒は同級生から「遥ちゃん」と呼ばれていた。 華奢な体つきをしており、色白で、後ろ姿が女子に見間違われそうなくらい頼りなかった。 顔立ちの方も同様だった。 女子の制服を着せても違和感がなさそうな少女めいた容貌を持っていた。 藤野遥はいつもぼんやりしていた。 登下校の際も移動教室の時でも、そのままどこかにぶつかってしまうのではないかという虚ろな目つきをしていた。 何を考えているのかわからない少年であった。 晋也は体育館で行われる集会時に彼を見かけ、陰気臭い奴だと思った。 列の中にいるというのに遥はまるでそこにいないようだった。 校長の挨拶もそばで交わされる会話も笑い声も耳に届いていない。 視界に入っていない。 周囲との繋がりを拒む凍てついた世界が絶えず彼を包み込んでいた。 学年の違う遥と接触を持つ機会などそうそうなく、高校進学を来年に控えた時期、晋也は感情表現を全く出さない人形さながらの下級生など廊下で擦れ違おうともちょっかいなど出さずに素通りするつもりでいた。 その日までは。 その日は一時間目が体育の授業だった。 体育館での授業を終え、バスケットボールを友達とパスで回して遊んでいたら晋也の視界に遥の後ろ姿が過ぎった。 二時間目を体育授業に宛がわれている次のクラスが早々とやってきたのである。 彼は開放された通用口の方を向いて突っ立っていた。 ジャージの袖がかなり余っている。 かろうじて覗く指先は簡単に折れてしまいそうな細さだった。 「なぁ、あいつって簡単に折れそうじゃ?」 晋也は丁度回ってきたバスケットボールを両手に持ち直した。 友達は笑っている。 体育教師はまだ体育館に来ていなかった。 あいつはどんな顔をして痛がるんだろう? ふと湧き上がった好奇心に促されるまま晋也は遥の背中目掛けてボールを放った。 その数秒後に遥は膝を突いた。 ボールは磨かれた体育館の床を音もなく転がって、ゆっくりと、途中で止まった。 振り向いた遥と目が合って晋也は思った。 もっとこいつの痛がる顔が見たい、と。 旅費の見積書が提出されておらず、講座に電話をして早めに持ってくるよう指示し、晋也はデータの入力作業を再開させた。 金曜日。 いつもと何ら変わりない朝を迎えて出勤した。 パソコンを起動させて大量のメールをチェックし、毎朝デスクに置かれている警備の点検書をざっと見直したり決裁済みの書類を経理に回したりと、午前中の業務をいつも通りにこなしていた。 しかし頭の中はそうではなかった。 藤野遥。 その名前は勝手気ままに振舞えた、自由奔放だった頃の世界と連鎖する。 ……どうしてあんな約束をしてしまったのだろう。 キーボードを打つ両手を休めずに晋也は昨日の事を思い出す。 今日、仕事帰りに駅前で彼と会う予定だった。 今更ながらきっぱり断ればよかったと晋也は後悔していた。 残業でいつ仕事が終わるかはっきりしない。 そう告げても遥は「待っているから」の一点張りだった。 会って、どうするというのだろう。 自分を虐げていた相手に酒でも奢るつもりか。 復讐でもしたいのか? されても、文句は言えない。 それだけの事を俺は遥にした。 気がつくと事務室奥の給湯室から女性事務員の笑い声が聞こえていた。 パソコンの画面下を見て正午を回っていると知り、晋也はデスクを立った。 私立大学に属するこの医学部は都心部に割りと近い住宅地と鬱蒼と連なる竹林の中間に建っていた。 大学院として医学系研究科も置かれており、八階建ての基礎研究棟がほぼ中央に、周りには動物実験施設や放射線を取り扱うアイソトープ研究施設などが併設されている。 晋也は中庭を横切って売店や学生ホールが備わる建物へ向かった。 食堂に入ると学生達のお喋りに出迎えられる。 一人で参考書片手に黙々と食事をとる者もいた。 定食のトレイを受け取った晋也はブラインドの下げられた窓際のカウンターに座った。 定食を半分食べ終えた頃、晋也の背中に声をかけてきた者がいた。 「隣、いいですか?」 晋也が浅く頷くと男はふわりと笑い、隣に腰かけた。 病理学の講座に勤める、久保原(くぼはら)という名の研究員だった。 雑務的な仕事も担っていて事務室でもよく見かける。 試薬の染みが目立つ白衣にいつも両手を突っ込んでいる、大人しそうな外見に反して意外とお喋りな、粉雪がうっすら積もったような白髪交じりの年齢不祥な男だった。 「ウチの教授が今度町田君と飲みたいって」 「どうして、また」 「いい男と飲むのが好きなんですよ。周りにいるのがこんなのばっかりだから」 「私など久保原さんに劣ります」 「僕みたいなデクノボーと比べないで……。そういえば、毒劇物の点検、もうすぐでしたっけ……」 久保原と話をしながら可もなく不可もない味を飲み込んでいく。 ブラインドの僅かな隙間からは明るい陽光が差し、手元に小さな日溜まりをつくっていた。 「町田君、今日、ちょっと険しいね」 晋也は箸を休めて隣の久保原を見やった。 彼はブラインドの向こうに広がる中庭の青々とした芝生でも眺めていそうな眼差しで正面を向いていた。 「何か嫌な事でもあった?」 「いいえ。久保原さんの気のせいでしょう」 「そう? 珍しいと思ったんだけど」 久保原はサバの味噌煮込み定食をあっという間に平らげた。 白衣は出入り口のコートハンガーに引っかけているのでスラックスのポケットに片手を突っ込むと、賑やかなフロアを悠々と突っ切っていった。 間もなくして晋也も基礎研究棟の一階にある事務室に戻った。 まだ女性事務員がランチボックスを広げている給湯室の片隅でコーヒーを淹れ、デスクに着き、回転イスにもたれかかる。 午後の業務が始まると時間の流れが一気に加速した。 電話に対応し、講座に出向いて所用をいくつか済ませていたら、もう三時に差しかかっていた。 トイレの手洗い場で雑に顔を洗い、晋也は鏡に写る自分の顔と何気なく向かい合った。 デスクワークが基本のため二重の双眸は疎ましげな疲労を引き摺っている。 白々とした頭上の蛍光灯に照らされて刃こぼれしたナイフが放つような冴えない光を滲ませていた。 切ったばかりの黒髪は整髪料で軽く整えた程度だ。 眉にかかる前髪や鬢の辺りが今は濡れていた。 十代半ばまで放っていた刺々しさは抜けきっている。 中学時代に明け透けだった放埓さも、最も荒れた高校一年の頃の殺気も跡形なく消え失せたはずだった。 険しい、か。 昼休みに告げられた久保原の言葉が午後の時間の流れと共に膨れ上がっていく苛立ちを露骨に刺激していた。 馬鹿らしい。 臨戦態勢に入る必要なんか、ない。 恨み言を吐くというのなら聞こう。 復讐したいのならすればいい。 それで終わりだ。 後には何も残らない。 タオルハンカチで水滴を拭い、晋也はデスクに戻った。 五時になるとパートタイマーの事務補助員が一足先に退室した。 残りが約半分の人数となる。 書類を捲る音や係長の独り言が五時以降の静けさを際立たせた。 定時の五時半、教職員出張に関する専用ソフトのデータ入力を行っていた晋也は必要以上の力を込めてキーを叩いた。 いっそ約束など破るか。 晋也は脳裏を一瞬過ぎったその考えに腹の中で更なる苛立ちを募らせた。 怖いのか、藤野遥が。 ……そんな事はない。 六時過ぎ、晋也は残っていた主任と係長に挨拶して昨日より早く仕事を切り上げた。

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