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君想フ故ニ我アリ-3
遥はいた。
駅前の高架広場でベンチに座り、晋也を待っていた。
「町田さん」
人波に紛れていた晋也を見つけると遥は即座に立ち上がった。
晋也は他者の通行の邪魔にならないよう近づいてきた彼を欄干の方へ促した。
ラッシュ時で混雑した車道が見下ろせる、風の吹きつけてくる場所だった。
晋也と向かい合った遥は開口一番に「昨日はごめん」と、謝ってきた。
「突然、誘ったりして。他に約束とかなかったかな」
「いいや、大丈夫だ。特に予定はなかったから」
遥は風に煽られる長めの髪を手で押さえると繊細な睫毛の影を頬に落とした。
「そう。よかった」
蒼白だった肌の病的さが抜けて透き通るような瑞々しい白さへと変わっていた。
身長も伸びたようだ。
一八〇センチ近くの晋也には及ばないが、華奢だった骨組みも昔と比べるとしっかりしている。
女に見間違われる事はなさそうだった。
「町田さん、背が伸びたね」
「藤野も。一七〇くらいか?」
「一六八センチ」
スーツ姿の晋也と違い、遥は昨日と同じデニムにパーカというラフな格好をしていた。
二十代後半には見えない。
勤務先の大学キャンパスに容易く溶け込めそうな実年齢より幼い雰囲気があった。
「何か学生みたいだな、藤野」
「町田さんはスーツが似合ってる……お店、その辺の居酒屋でもいい?」
とりあえず晋也は駅周辺にある飲み屋街へ遥と向かった。
当たり障りのない話をしながら、いつにもまして人出がある金曜日の雑踏を彼と並んで歩いた。
かつてこの手で虐げていた相手が普通に話しかけてくる。
過去の俺達を知る第三者にしてみても信じられない光景であるはずだ。
昔の事だからと笑って済ませられるものではなかった。
過ちにも等しい、一歩間違えれば身の破滅に陥る程の嗜虐性に忠実な一年間であったのだ。
だが遥の様子から復讐心や憎しみといったどす黒い悪感情は見て取れない。
遥の真意が読めない。
それが却って言い様のない違和感に追い討ちをかける。
大体、当時はろくに言葉も交わさなかった。
俺と遥の間にあったのは一方的な狂気だけ。
遥はいつも黙ってただ受け止めていた。
泣きもせず、誰かに救いを求めるでもなく。
遥は一度も「やめて」という言葉を口にしなかった。
「町田さん?」
晋也ははっとした。
適当に選んで入った居酒屋のカウンター、店員が飲み物の注文をとりに真横へやってきていた。
生ビールを注文すると遥も同じものを頼んだ。
店の中で彼は羽織っていたパーカを脱いでおり、半袖のシャツからはさも滑らかそうな質感の腕が伸びていた。
「町田さんは今、会社員?」
店員から手渡されたおしぼりで両手を拭きながら問いかけてくる。
卒業後、互いの身辺は知る由もなかった。
晋也は突き出しの和え物を摘んで答えた。
「事務員。医学部の」
「そう、医学部……もう長い?」
「大学卒業して、その年に試験を受けて入ったからな。総務で一通りこなせるようにはなった」
「毎日スーツって気を遣いそうだね」
「そっちは今何してるんだ?」
「美術館の契約スタッフ」
「美術館って、だだっ広い運動公園のそばにある?」
「うん。収蔵作品のデータ入力とかイベントの写真撮影とかやってる。いろんな展示が見られて楽しいよ」
ちゃんとまともに働いているのか。
道理で病的さが抜けているわけだ。
しかも、あの遥が仕事に楽しみを見出しているとは。
いつだって俯きがちで全てを拒絶していそうな性格だったというのに。
「意外だな」
そう相槌を打った後、晋也は言わなければよかったと内心苦虫を噛み潰した。
今の発言は完全に過去と比較したものだ。
蒼白で弱々しかった頃に刻みつけた傷跡を浮き彫りにしたのではないかと、軽率な自分自身に対して苦々しさが込み上げてきた。
遥は運ばれてきたビールジョッキを受け取ってから頷いた。
「そうだね。昔の僕でも想像できなかった、こんな自分」
メニューを見て料理を注文し、遥は晋也に向き直った。
やはりその双眸に淀んだ悪意は見られない。
「今、僕がここにこうしていられるのは町田さんのお陰だから」
「俺の?」
思わず晋也は聞き返していた。
とてもじゃないがすんなりと受け入れられない。
恨み言を吐き捨てられる覚悟はしていた。
まさか感謝されるとは予想もしていなかった。
どういう意味だ。
俺は殺しかねない狂気をお前に振るったんだぞ。
どうしてそんな事が言える。
どうしてそんな風に俺を見る、遥……。
胸の内で晋也が煩悶しているとも知らずに遥はジョッキを傾けた。
晋也も、平静なふりをしてビールを飲んだ。
こんなに味のしないアルコールは初めてだった。
座敷席を予約していた団体客が入店し、二人の背後を通り過ぎていった。
晋也は湧き起こる疑問を言葉にするのも億劫で、つい沈黙してしまっていた。
近況を話す気にもなれない。
周囲を包む熱気がいつになく煩わしく感じられた。
遥は至って落ち着いていた。
かつて自分を虐げていた相手との沈黙に気まずそうにするでもなく、箸を進めている。
徐々にエスカレートする店内の哄笑にも揺るがずに淡々とした表情を浮かべていた。
ふと晋也はそんな遥に視線を奪われた。
校舎の片隅で斜め下ばかり向いていた彼を思い出す。
周囲にどこまでも無関心な、凍てついた世界に籠城していた下級生を。
……見過ぎたか。
遥が矢庭にこちらを向いたので晋也は動じた。
同時に見入っていた自分に呆れた。
「町田さんはずっと地元にいたの?」
差し障りのない会話に戻った。
敢えてそうしているのだろうか?
晋也は疑問の答えを知りたい欲求を腹の底に沈め、相変わらず味のないビールを一口飲んだ。
「ああ。実家は出たけどな。ここから近いマンションで細々やってる」
「駅周辺だと交通が便利でいいね」
「そうだな。時々、酔っ払いがうるさいけどな……」
結局、その後も遥は晋也に感謝している理由を語ろうとしなかった。
二時間足らずで店を出、まだ人の行き来が絶えない通りを横目にガードレール脇で顔を合わせた。
「ごめん、払わせて……」
「大した額じゃない」
早々と勘定を済ませた晋也に遥はすぐさま全額返そうとした。
晋也が一度断るとそれ以上支払いを言い張る事はなく、彼は素直に礼を述べた。
「ありがとう。本当に今日は突然ごめん。ばったり会って、次の日急に会おうなんて。きっとびっくりしたよね」
「そうだな」
遥の瞳の中でネオンの光彩が瞬いていた。
店内の熱気で火照った頬がうっすらと赤い。
足取りや言葉はしっかりしていて酔いが回っているわけではなさそうだった。
「じゃあ……」
遥はおもむろにそう言った。
一歩身を引いて別れの気配を示す。
晋也もそのまま黙って踵を返すつもりであった。
……俺は理由を何一つ聞いていない。
何故、虐げられた過去があるにも関わらず淡々と普通に話しかけてくるのか。
あんなにも真っ直ぐに見つめてくるのか。
どうして俺を憎んでいないのか。
「藤野」
呼び止めた晋也に、去りかけていた遥は瞬時に振り返った。
まるで呼びかけられるのを待っていたかのような反応である。
真正面に駆け寄ってくると遥は真摯な眼差しでじっと晋也を見上げてきた。
俺は何を言おうとしているんだ。
今日会って、それで終わりにするはずだったろう。
何も残す必要はないと。
理由がわからないから、何だ。
取るに足らない疑問として忘れ去ったらいいじゃないか……。
「また会えないか」
抑揚のない口調の誘いに遥は浅く頷いた。
晋也の頭の中ではもう一人の自分が「また後悔するぞ」と嘯いて冷笑していた。
「……わからないな……」
マンションに帰宅した晋也は落ち着いたブラウン一色のソファに突っ伏していた。
二本空けた缶ビールがサイドテーブルに置かれている。
テレビボード上の液晶画面は片づけられた室内を写し出していた。
ただし脱衣室には洗濯物が溜まっている。
土曜の半日は毎週洗濯に追われる日々だった。
晋也は仰向けとなり、背もたれに引っかけたままになっている自分のネクタイを何気なく見た。
すると、その表情がみるみると険しさを帯びていった。
職場などの外では決して見せない顔つきだ。
欲望に忠実だった過去の彼を彷彿とさせる回想に囚われた虜囚の眼差しとなっていた。
投げ出した掌には細い首の感触が蘇っていた。
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