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君想フ故ニ我アリ-4

友人に止められるまで晋也は忘れていた。 ここが学校の裏庭である事を。 昼休みも終わりに差しかかっていて、予鈴のチャイムが鳴り響き、背後には複数の同級生が立っていた事を。 ネクタイで両手首を雨樋に括りつけて身動きを封じた遥の首を絞めるのに夢中になっていた。 「おい、もうやめた方がいいって」 肩を掴まれて揺さぶられる。 眉根を寄せて苦しむ遥を凝視していた晋也は現実に引き戻され、やっと彼から離れた。 その瞬間に遥は咳き込んだ。 激しく身を震わせてつらそうに噎せた。 細い首には晋也に絞められた手の跡がくっきりとついていた。 「遥、お前、顔上げるなよ」 きつく結んでいたネクタイを苦心して解くと震える肩にかけ、晋也は、伏せられていた遥の顔を無理矢理持ち上げた。 緩んだ唇の両端から唾液が伝っている。 晋也は一切気にせずに細い下顎を掴む手に力を加えた。 「先生にバレたらもう一分追加するからな」 そう。 バレたら終わってしまう。 遥を虐げられなくなる。 それだけは嫌だった。 「……」 遥はやはり何も言わなかった。 先週、降り頻る雨の中で手を踏みつけた時もそうだった。 苦痛で身悶えるものの大した抵抗はしない。 半身に乗りかかられネクタイで首を絞められても息苦しそうに体を捩じらせるだけだった。 手が離れると失いかけていた呼吸を必死で取り戻す。 その様を眺めるのも晋也は好きだった。 だが、苦しみから解放された遥は一気に色褪せて見えた。 満たされたはずの晋也はそうしてまた遥の苦しむ顔に飢えた。 週半ば、晋也は知り合いに連絡をとって飯でも食べないかと誘った。 隔月に会う程度の親しい友人だった。 中学時代からの古い仲であり、彼は快く同意してくれた。 木曜日、晋也は定時過ぎに仕事を終えると一端帰宅して約束した店へと出かけた。 「珍しい、町田から誘ってくれるなんて」 ダイニングバーのテーブル席でコロナビールを飲みながら友人の(たちばな)は言った。 昼は古着屋の店員、夜はバーテンダーをしている彼の腕にはトライバルのタトゥーが彫られている。 今は長袖のシャツジャケットで隠されて余計に目立つ事はなかった。 「橘、藤野って覚えてるか」 晋也は前置きも疎かに本題を切り出した。 革張りの赤いソファにもたれていた橘は「誰、それ」と、苦笑いする。 メニューを支える指のシルバーリングが控え目な間接照明を反射して鈍い光を発した。 「ん……ちょっと待てよ。藤野って、もしかして遥ちゃん?」 「ああ、そうだ」 「覚えてるよ、そりゃあ。忘れるわけねぇって」 「その藤野と会った」 橘の表情に明らかな緊張が走った。 メニューを下ろして前屈みとなり、向かい側にいた晋也へ顔を近づけてきた。 「町田に会いにきたのか?」 橘は知っている。 晋也が遥を虐げるのを一番間近で目撃していた友人だ。 狂的な欲望に突っ走っていた晋也の理性を度々呼び起こす、歯止めをかける役割をこなしていた。 「いや。偶然、駅前で。向こうから声をかけてきた。久し振りに会う同級生みたいに」 「……へぇ」 「次の日、また会った。一緒にビール飲んで話をした」 「何だよ、それ。ありえねぇよ。何か裏があるんじゃ?」 「そうは見えなかった」 やってきた店員に多国籍料理の言い慣れた品を注文し、橘はまたソファの背もたれにふんぞり返った。 無精ヒゲの生えた顎を掌で覆って考え込むように束の間黙る。 この友人との間にこんな沈黙は珍しかった。 「町田は弱い者イジメするような奴じゃなかったよ」 中学二年で晋也と出会っている橘は敢えて軽い物言いで当時の話を始めた。 「特にからかったりする事もねぇし。それがさ、中三で遥ちゃんと接した途端に。火が点いたよな。俺、本当にバスケットボールぶつけるなんて思わなかった。マジでやりやがった、って。意外だった」 その後も驚きの連続だよ、と橘は続けた。 晋也は黙って聞いていた。 細長いグラスの表面についた水滴が下へ流れていくのを眺めていた。 「あれはイジメっていうよりマジでやばい行動だったよな。遥ちゃん、泣き言一つ洩らさねぇで毎日学校来てたみたいだけど。俺はいつブチギレるか気が気じゃなかった。だから町田が無事一緒に卒業できた時は正直ほっとしたんだぜ」 カウンターの方で細やかな笑いが起こる。 背の高い観葉植物越しに二人組の女性客の背中が窺えた。 「高一で荒れたよな、町田は」 「ああ」 「あれって遥ちゃんの反動?」 店内に巡らせていた視線を戻す。 橘はいつの間にか身を起こして晋也を正視していた。 晋也が最も派手に荒れた時期は高校一年の頃だった。 遥を虐げられなくなった事で訳もなく日常に蓄積されるつまらなさが頂点に達し、フラストレーションを他にぶつけた。 放課後、相手はいくらでもセンター街にいた。 わざと肩にぶつかってきた他校の生徒、睨んできた年上のグループ、酒に悪酔いして絡んできた男達。 当然手酷く痛めつけられる事もあったが不思議と恐怖や敗北感はなかった。 定めた相手に全力で暴力を振るえればそれでよかった。 今となってはどの顔も思い出せない。 何物も遥の代わりにならないとわかり、落胆し、翌年には街へ出るのも面倒で放課後は即座に自宅へ帰っていた。 生傷が絶えなかった息子を心配していた家族は急に寄り道せずに家で暇潰しの予習を始めるようになった晋也に戸惑っていたものだった。 「反動……そうだな」 「見るからにやばそうな連中にも向かおうとするから必死で止めてたよ。でもな、俺は中三の町田を止めに入る方が正直しんどかった。普通じゃねぇよ、今考えてみても。殴る蹴るならまだしも、本気で首絞めてさ。一人で一人をぶっ潰そうとして……」 橘が当時をこう思っていたと語るのは初めてだ。 高校最初の一年間については話題に上がる時もしばしばあった。 中学最後の一年間は尋常でなかったと見做され、禁句とされていたのかもしれない。 中学卒業後、遥の元へ戻るのだけは憚られた。 現実と狂気の境界線を越えてしまいそうな自分を危ぶみ、初めて二の足を踏んだ。 もう一人の自分が自重を囁き始めたのはその頃からだろうか。 「もしかしてさ、町田って藤野遥を殺したかった?」 晋也は思いがけない問いかけに目を見開いた。 殺したかった。そうなのか? だから俺はあいつの苦しむ顔を望んだのだろうか? 「わからない」 晋也は正直に答えた。 膝の上に置いた両手が僅かに震えていた。 細い首の、薄い皮膚の下にある骨の関節がもたらした凹凸。 手首に絡みついてきた吐息。 眉根を寄せて苦悶する、遥の顔。 全て覚えている。 遥との邂逅によりその記憶は前以上に生々しさを帯びていた。 「もう会わない方がいい」 晋也の震えに気づいていない橘はそう断言した。 「解せないぜ、そんな行動。普通に見えても腹の底では町田に復讐するチャンスを狙ってんのかも。とにかく過去なんか忘れろよ。同じ事が起こらないとも限らねぇし」 「俺がまた藤野を」 晋也は密かに凍りついた。 そんな事は、ない。 決してあってはならない。 許されない行為だ。 今の生活に確実に影を落とすだろう、そんな、自ら好んで破滅に向かうわけがない。 「まぁ、もう会う事なんかないだろ……」 いいや、橘。 俺は遥と明日また会う。 お前が普通じゃないと言った行動、それを犯した俺を憎んでいない理由を聞きにいく。 今度こそ、それで終わりだ。 終わらせなければならない。

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