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君想フ故ニ我アリ-5
金曜日は朝から天気が愚図ついていた。
六月の初めで県内はまだ梅雨入りしていなかったが心を押し潰すような薄暗い曇り空であり、晋也は傘を携えて大学に向かった。
昼を過ぎた辺りで小雨が降り出し、遥と会う頃には本降りとなっていた。
「今日はずっとデータ入力してたんだ」
高架広場でビニール傘を差した遥は目元を擦りながら言った。
先週より疲れた様子で、しかし六時過ぎにやってきた晋也に文句一つ言うでもなく相変わらず淡々とした態度で出迎えた。
二人は前回と同じ居酒屋に入り、カウンターで少しばかり仕事の話をした。
頼んだ品が運ばれてくると会話は途絶え、周囲の賑やかな笑い声を聞き流しながら寡黙に箸を進めた。
一週間、晋也は遥の答えを待ち続けていた。
だが、いざ彼と顔を合わせると逡巡してしまう。
自分はこんなにも優柔不断だったのかと自虐的な気持ちが湧いてきた。
……また次回に持ち越しなんて耐えられない。
晋也は、疑問をぶつけようと思いきって口を開いた。
「なぁ、藤野」
遥がこちらを向いた。
吊り目がちの双眸に直視されて、晋也は、やはり言おうとしていた台詞を続ける事ができなくなった。
逸らすのも憚られてただ曖昧に視線を繋げていたら西日の中で再会した時のように、遥以外の全てが意識の外へ遠退いていく錯覚に陥った……。
「町田さん、よかったら僕のアパートで飲まない?」
白昼夢じみた錯覚が一瞬にして解ける。
晋也は、思いも寄らない遥の提案に正直驚いた。
「ちょっと歩くけど……それにワンルームだから。お世辞にも広いって言えない」
『腹の底では町田に復讐するチャンスを狙ってんのかも』
橘の言葉が脳裏をちらついた。
もう一人の自分が「行くな」と晋也に忠告する。
何かあってからでは遅い。
ここで引き下がれと。
ここで引き下がっていたらいつまで経っても答えが得られないじゃないか。
「そうしよう、藤野」
そうして二人は居酒屋を出た。
腕時計で確認すると時刻はまだ八時前だった。
傘を差した人々の間を擦り抜けて雨の中を歩む。
車道にはヘッドライトが溢れ、時折雨音に高々と鳴らされるクラクションが紛れた。
表通りの歩道橋を渡り、すでにシャッターが下りた商店街を突き抜ける。
角にあるコンビニエンスストアを曲がると一気に人足が減った。
道端に咲いた紫陽花が雨滴を弾いている。
ところどころにできた水溜まりがいくつもの波紋を描いていた。
居酒屋から十五分ばかり歩いて遥が入った先は白い外壁が薄闇に引き立つ二階建てアパートの一室だった。
中央に敷かれたラグの上にテーブル、壁際には一人がけのソファが置かれていた。
壁にカレンダーや時計などの類は見当たらない。
梯子のついたロフトが頭上にある。
どうやらそこで寝起きしているようだ。
こざっぱりとしたワンルームに晋也を通すとソファへ促し、遥は無言でタオルを差し出してきた。
「ああ、すまない」
ハンガーをもらい、上着をかける。
すると遥は「ここに干しておくから」と、晋也から受け取ったハンガーを窓際のカーテンレールに引っかけた。
冷蔵庫でよく冷えていた缶ビールを二本テーブルに置いて彼はフロアに腰を下ろした。
「殺風景な部屋だよね」
「いや……物があり過ぎて散らかってるよりいいんじゃないのか」
逡巡を持て余す晋也は焦燥感を少しでも紛らわせようと室内を見回しつつ尋ねた。
「藤野の実家は市内なのか?」
「一応。都心ではないけれど。町田さんも一人暮らしだったよね。実家は近い?」
「ここからバスで一時間以上はかかる。藤野の所より遠いかもしれない」
こんな話をするために遥の部屋へ出向いたのではない。
本当に何をやっているんだ、俺は……。
「父子家庭なんだ」
ロフトの方を見上げていた晋也は遥に目線を変えた。
彼はテーブルの一点を見下ろしている。
雨で僅かに濡れた髪がこめかみに張りついていた。
「僕が生まれた時、母さんが鬱病になって」
晋也の視線の先で遥はゆっくりと顔を上げた。
先程までと大差ない物静かな表情で、彼はやはり淡々と続けた。
「寝たきりの状態が続く事もあった」
「……」
「症状は不安定で通院や入退院を繰り返して、費用だけがただ嵩んで。少しでも明るい気持ちになりたかったみたいで通販で不要な買い物もたくさんしたから、いろんな金融会社に借金した。裁判所から賃金請求の訴状が届いたりしたし、督促の電話が鳴り止まない日だってあった」
遥の家庭環境は初めて耳にする。
あれ程自分を突き動かしていた、理由を知りたいという欲求が自然と静まり、晋也は彼の過去を黙って聞いていた。
「父さんは母さんの実家からも促されて僕が小学六年の時に離婚した。僕と債務全部を引き受けて、休日返上して働いて返して……でもまた利息返済や生活費のために借りて。悪循環だよね」
しかし遥の父親は息子に決して弱音を吐こうとしなかった。
仕事の合間、数少ない休日には溜まっていた家事をこなし、スーパーで最低限の買い物をし、時に遥の好きなものを夕食に作ってくれた。
そんな父親の振舞が当時の遥にはただ痛々しいものでしかなかった。
母親は自分を生んだせいで苦しみ、父親は自分がいるために苦労しているのではないか。
絶望感にも似た色濃い不安を常に心に引き摺っていた。
母親が通販で購入した使い様のないガラクタだらけの家にほぼ一人でいる日々は暗く淀んでいた。
薄汚れた水槽の底を当てもなく漂っているようだった。
「お前さぁ、気持ち悪いんだよ」
中学校に入学すると遥はクラスのある男子グループから目をつけられた。
持ち物を隠されたり燃やされたりし、休み時間は好き勝手に大声で中傷される。
大勢のクラスメートがいる前で派手に罵倒された事もあった。
彼等のイジメは夏休み前にはすっかり終了していた。
無反応でい続ける遥に飽きたのである。
遥は嬉しくも悔しくもなかった。
何も変化は起こらない。
学校では教えられた通りに勉強して、朝になれば時計のアラームで目覚めて、登校する。
その繰り返しだった。
いつ死んでもよかった。
家族を苦しめ続ける日々がこれ以上続くのなら、いっそ自ら死のうかとも思った。
ある日、突然、背中にバスケットボールを投げつけられるまでは。
「なぁ、あれ、折れた?」
あまりにもそれは衝撃的だった。
「折れてたらもっと痛がるよな」
体育館の床に膝と手を突いて、急激に加速した心臓の動悸を体内で聞きながら、遥は振り向く。
一人の上級生が自分を見ていた。
それまで憂鬱な色合いの校舎と同化しかかっていた中学校の住人を、その時、遥は初めてまともに目の当たりにした。
「今度、お前の骨折ってもいい?」
彼はそう言って笑った。
暗く淀んでいた遥の世界に初めて劇的な衝撃をもたらした上級生。
彼の名前は町田晋也といった。
それからの放課後や昼休み、遥は頻繁に裏庭へ連れていかれるようになった。
容赦ない力で腕を掴まれて骨が軋み、鮮明な感覚が身の内に生まれて遥は驚いた。
霞がかっていた頭の中が澄んだ清流で隅々まで洗われていくような心地に忽ち引き込まれた。
痛い。痛い。痛い。
何もなかった世界に鮮やかな息吹の伴う痛みが訪れている。
薄汚れていた水槽のガラスにヒビが入り、そこから滲むように……。
手を踏みつけられると血肉が弾けそうになった。
ネクタイや両手で首を絞められると本当に窒息しそうになった。
遥が身悶えても晋也は力を緩めない。
むしろどんどん強め、時には遥の意識が遠退く限界寸前まで残虐に傲慢に追い込む事もあった。
死にたくないと遥は思った。
ああ、僕は生きている。
この痛みを、生きているという証を実感させてくれるこの感覚を、もっと味わいたい。
痛みの先にあるのは死。
その境界線前に広がるこの恍惚の海に溺れていたい。
もっと絞めて。
だけど殺さないで。
晋也が施す痛みは遥の生に直結していた。
感情が枯れかけていた遥にとって唯一の希望、虚ろだった仄暗い世界を照らす眩い光に値した。
「屈折してるよね」と、遥は言った。
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