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君想フ故ニ我アリ-6

「でも、あの頃は救いに思えた。町田さんと接したひと時、あれがなければ僕はここにこうしていられなかった」 テーブル上に置かれた手つかずの缶ビールを意味もなく見、晋也は呟く。 「だからお前は拒まなかったのか」 一度も拒否の言葉を述べなかったのは、むしろ望んでいたから。 誰にも告げなかったのは止められたくなかったから。 真摯に見つめてくるのはかつての晋也に救われていたから。 「屈折していて、どうしようもなく歪んだ世界。僕は忘れないよ。排除したりなんかしない。形はどうあれ死への憧れを打ち消してくれた。生きたいっていう気持ちを抱かせてくれた、大切なひと時だったから」 「……」 落ち着いている遥と反対に晋也は自分の感情が棘を孕んできているのに気づいた。 何を、苛立つ。 待ち侘びていた答えは得られたじゃないか。 一体、何が気に入らない?  「町田さんが卒業してその世界は終わりを迎えたけれど。前の自分に戻るのだけはやめようと思った」 遥の淡々とした口調が棘をより鋭くする。 晋也の胸の内に一筋の血を滴らせるように。 「もう水槽の中を漂っていない。ちゃんと自分の足でこれから歩いていこう、って。家の負担が少しでも軽くなるよう高校に入ったらバイトも始めた。父さんが言うから大学にも進学して……借金は嵩んだけど、司法書士の先生に債務整理の手続きをお願いして減額してもらった」  包み隠さず自分自身の過去を話した遥は双眸に偽りのない感情を込めた。 「町田さんが僕に生への執着と希望をくれたんだ」 晋也は俯いた。 どんな表情をすればいいのかわからない。 胸の内は血で浸されていく一方だ。 完結した物言いばかりする遥はかつての記憶を引き摺ってなどいない。 真正面から向かい合って、共存できていて、過去に囚われの身ではないのだ。 俺だけが回想の檻に置き去りにされている……。 「本当は話そうかどうしようか迷った。町田さん自身が再会にどう感じているのか正直わからなかったし。でも先週、町田さんから誘ってくれたから-」 「お前がいなくなって俺は」 唇が先走って意思とは関係なしに言葉を押し出す。 晋也は片手で顔の半面を覆った。 冷えた皮膚を掌でなぞって、投げ遣りに台詞を続けた。 「代わりを探して……自分に敵意を向けた奴は見境なく……でも、誰も……」 「……」 「……お前の代わりはどこにも……」 俺が遥に恨み言を吐くというのか。 これじゃあ立場が逆じゃないか。 虐げられていたのはどっちだ? 「町田さんはまだ僕を……」 独り言のように儚く途切れた遥の台詞を聞き、反射的に、晋也はある疑問を持った。 遥は以前と変わらず自分を拒まないのだろうか、と。 『同じ事が起こらないとも限らねぇし』 再び橘の言葉が脳裏に蘇る。晋也は拳を硬く握った。 あるまじき速度で募っていく荒々しい焦燥を曖昧にしようと自分自身の皮膚に爪を立て、肉体的な痛みで誤魔化そうとした。 「町田さんがくれる痛みなら僕は何だって耐えられるよ」 それは肌寒い部屋を包む静けさに溶けていきそうな呟きだった。 遥のひた向きな視線の先で晋也は凍りついた。 まるで頭の中を読まれたような卑屈な気分に陥り、自分がさも浅ましい、飢えた人間に思えた。 十四年前と同じ目つきで遥を見ていたというのか。 何も変わっていないのか、俺は。 眉根を寄せた晋也の頭の中でもう一人の自分が早口に囁いた。 早くここから離れろ。 手遅れになる前に、呑まれる前に。 かつて自分を支配していた欲望がぶり返す前に。 晋也はその声に従った。 「……町田さん……」 窓際にかかっていた上着をとり、フローリングの床に置いていた鞄を引っ掴むと晋也は別れも告げずに遥の部屋を後にした。 常夜灯が照らす道を足早に突き進む。 コンビニエンスストアを通り過ぎた辺りで雨が降っていた事を思い出した。 傘を、忘れてきた。 今更、戻れるわけがない。 晋也はそのまま雨足の弱まった路地を前進して表通りに出た。 無言の退出を悔やんだりはしない。 あれが俺達にとって最善の別れ方だったはずだ。 もう会わない。 もう何も残さない。 本当にこれで終わりだ。 晋也は何度も自分にそう言い聞かせた。 息を吹き返しつつあったかつての欲望を静めるための自己暗示でもあるかのように、執拗に。 あまりにも意識がそちらに集中していたために足取りが些か杜撰となっていた。 「おい」 唐突に腕を掴まれて晋也の意識はやっと外に向いた。 そこは歩道橋の上だった。 すれ違いざま派手にぶつかったらしい、傘を持たない三人組の若者が晋也を睨みつけていた。 普段なら何とも思わずに謝る。 今は何もかもが億劫で堪らなかった。 「おい、待てって」 自分を引き止めていた手を力任せに振り払って晋也はその場を離れようとした。 しかし三人組は睨むだけでは治まらない性質の悪い相手だった。 強引に引き戻された晋也は欄干へと突き飛ばされた。 「謝れよ、酔っ払い」 上着と鞄が足元に落ち、背中をぶつけて項垂れた晋也を取り囲むようにして三人が立つ。 階段を上りかけていた通行人はただならぬ雰囲気を察し、慌てて引き返していった。 下からは車の走行音が絶え間なく聞こえている。 どこかで救急車のサイレンも響いていた。 殴られたら少しは気が紛れるかもしれない。 晋也は襟元を掴まれても無反応でいた。 その声が耳に届くまでは。 「町田さん」 晋也は横を向いた。 三人組の一人の肩の向こうに遥の姿が窺えた。 雨にしっとりと濡れた彼は晋也が忘れていった傘を手にして、こちらへ走り寄ってくるところだった。 「すみません、やめてください」 一見して柄の悪い三人組に遥は全く怯まなかった。 晋也を殴ろうとしていた、耳に複数のピアスをした男との間に割って入って当たり前のように仲裁しようとする。 まさか自分を追いかけてくるとは夢にも思わず、晋也は、なかなか身動きできずにいた。 「……遥……」 硬直する晋也の目の前で遥は殴られた。 それを目撃するや否や、呪縛は解け、晋也は動いていた。 遥を殴った男の横面に無慈悲に固めた拳を叩き込んでいた。 「ッ……!」 それまで無抵抗でいた晋也が急に反撃したので他の二人は目を見張らせた。 倒れかかったピアスの男が更に膝蹴りを入れられて血の混じった唾を散らすのを呆然と眺めているばかりだった。 晋也は躊躇しなかった。 一人目が蹲ると呆気にとられていた二人目の腹を蹴り上げた。 我に返った三人目の容易に見切れた鈍い攻撃をかわし、容赦ない右拳による一撃を相手の懐深くに沈める。 二人は驚く程簡単に突っ伏した。 晋也は蹲っていたピアスの男を無造作に起こすと欄干の向こう側へ上半身を乗り出させた。 男が悲鳴を上げる。 無表情の晋也は嫌がる頭を問答無用に排気ガスで煙る下へと押しやった。 まるで十三年前のリプレイだ。 冷めた暴力性が一気に目覚めて手加減を忘れさせた。 「町田さん」 男の髪を鷲掴みにして車道に突き合わせていた晋也は背中に軽い衝撃を受けて振り返った。 先程まで倒れ込んでいたはずの遥が起き上がり、珍しく目を見開かせて自分にしっかりとしがみついていた。 「駄目だよ、町田さん」 「遥」 左の頬が赤い。 血が、唇に滲んでいる。 湿り気を帯びた半袖のシャツが滑らかな肌に張りついていた。 過去と現在が脳内で目まぐるしく行き来し、密かに混乱した晋也は喚く男を欄干の内側に離した。 騒ぎを聞きつけたのか、歩道橋の階段下に通行人が集り始めていた。 こんなに目立った場所で一悶着を起こしたのだ、警官が今に駆けつけてきてもおかしくはない。 遥は落ちていた持ち物を素早く拾うと棒立ちとなっている晋也の腕をとり、駆け足でその場を離れた。 勢いよく水溜まりを跳ねながらネオンと人で溢れる街路を走り抜ける。 降り頻る小雨はしばらく止みそうにない。 人気のない裏路地に出、とうとう息が上がり、二人は急いていた足を緩めた……。 「こんなに走ったの、久し振りだよ」 遥は先に呼吸が落ち着いた。 片腕で懐に抱き込んでいた晋也の持ち物を見下ろして、ぽつりと言う。 「傘と一緒に持ったから上着も鞄も……」 パーキングのフェンスに寄りかかって息を整えていた晋也はぞんざいに口元を拭い、顔を上げた。 遥がすぐ前に立っていた。 持ち物だけではない、彼だって濡れている。 雫を含んだ睫毛の被さる双眸がやけに潤んで見えた。 「あんな町田さん、初めて見た」 遥は更に一歩晋也へ近づいた。 前髪のかかる、手負いの獣じみた眼を仰いで腕を伸ばす。 「……大丈夫?」 遥の白い手が晋也の頬に触れた。 その瞬間、晋也の身の内にかつての欲望が蘇った。 煽られるまま暴走に身を任せて遥にかつての狂気を振るおうとした。 「町田さ……」 その細い首を容赦なく絞めていた手で遥を引き寄せ、身悶える様を見下ろして愉悦していた唇を。 遥の唇に重ねようとした。   「もう会うのはよそう」 「町田さん」 「もう、俺に近づくな」 弱々しく点る外灯の下、遥から離れた晋也はフェンスに額を押しつけた。 哀願のような口振りで突きつけられた宣告に遥は押し黙る。 片腕で荷物を抱き抱えたまま、小雨を浴びて戦慄く晋也の背中を見つめていた。 二人の沈黙を乱すようにどこか遠くでサイレンが鳴っていた。

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