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君想フ故ニ我アリ-7

予鈴が鳴っている。 乾いた木枯らしに吹かれて枝葉が身を震わせる。 冬服のブレザー姿で佇む遥を前にして、晋也も、そこから動き出せずに立ち尽くしていた。 何かが、いつもと違う。 目の前にいる遥も。 自分自身も。 他の全てが忘れ去られていくかのようにただ互いを見つめ合っていた。 そこで晋也は目が覚めた。 カーテンが閉ざされた薄暗い寝室で微熱の伴う重みを全身に感じながらの起床であった。 あれは夢じゃない。 晋也は気だるそうに寝返りを打ち、弾みで長いため息をついた。 カーテンの向こうでは陽光が滲んでいる。 それが矢鱈と眩しくて、また目を瞑った。 あれは覚えがある。 卒業式を間近に控えた頃、裏庭で遥と最後に接触した日だ。 あの日のあいつは、もう、今の遥に近づき始めていたんだろうな……。 十分ばかりベッドでぼんやりし、晋也は緩慢な身のこなしで起き上がった。 だるい体を奮い立たせて洗面所に向かう。 山積みの洗濯物が否応なしに視界に入って気が滅入った。 今日は何もしたくない。 何も食べたくないし、何も考えたくなかった。 晋也は溜まっていた洗濯物の半分を洗濯機に突っ込んで、冷凍食品を電子レンジに入れ、ソファに仰向けになった。 遥は風邪を引かなかっただろうか。 開け放した窓から運ばれてくる風を顔に浴びる。 晋也は真っ白な天井をじっと凝視した。 複雑な家庭の事情故に過去の遥は暗く虚ろだった。 かつては、そんな遥を虐げて痛みに苦しむ顔を見下ろすのを至上の楽しみとしていた。 遥が言うには、それが自分にとって生の実感を得られる唯一のひと時だったという。 じゃあ俺は生気が満ち溢れる様に目を奪われていたという事になる……。 昨夜の出来事を思い出した晋也は指の関節で唇に軽く触れてみた。 昨晩、どうして遥にキスしようとしたのだろう。 俺も屈折していたのか?  本当の欲望を捻じ曲げていたのか? 『藤野遥を殺したかった?』 そうじゃない。 俺は殺したかったわけじゃない。 俺は遥を……。 身も心も求めているのか、遥を。 昔も今も。 校内で擦れ違うだけでは物足りず、その視界に捉えてほしくて、二つ下の下級生で男の藤野遥と何か繋がりがほしい一心で。 バスケットボールを投げつけた。 ただ擦れ違うだけの粗末な関係に幕を、一歩間違えれば身の破滅を招くであろう狂気の引き鉄を自ら引いた。 そして今は回想の檻に一人だけ置き去りにされ、嫉妬し、喧嘩にまで巻き込んで、挙句の果てが突然のキス未遂か。 身勝手にも程がある。 ありのままの欲望に気づかされても俺には成す術がない。 晋也は上体を起こすとバルコニーに目をやった。 昨日、遥が両腕に抱いてくれていた上着が束の間の青空を背にして重たげに揺れていた。 歩道橋で必死になって自分を止めた姿が瞼の裏に刻まれていて、胸の内に延々と込み上げてくる熱を感じつつ晋也は自虐的な笑みを零した。 俺が遥のそばにいていいわけがない。 柔らかな日差しが窓辺に降り注ぐ中、晋也はバルコニーにかけられた上着を延々と眺め続けていた。 天気予報でニュースキャスターが深刻そうに告げていた通り月曜日は午後から大雨となった。 「町田君、毒劇物の点検表は……」 作成をすっかり忘れていた晋也は係長に頭を下げた。 資産関係の書類チェックを中断し、パソコンと向かい合う。 前年度のデータを少々書き換えて年月日を新しく打ち込めばすぐに仕上がる。 ただ、最近仕事に身が入っていない状態を再認識させられて自分に舌打ちしたい思いだった。 しかもプリントした点検表を見直してミスを発見し、晋也は一人自嘲した。 これが未練というやつか。 その事ばかりに囚われて尾を引いて……自由になれない。 十三年前に経験した覚えのある思いだった。 他に何か忘れていないか確認して晋也は元の作業に戻った。 雨が止む気配はない。 資料ファイルの積み重なる窓辺の外では常緑樹の枝が大きく撓っている。 稲光が走り、近くで派手に雷鳴がした時には女性職員が驚いていた。 五時になり、パートタイマーが渋々事務室を出ていく。 雷は遠ざかったものの雨は未だに激しく降っていた。 不要な超過勤務をするつもりはないが確かに帰る気力を削がれる。 しばらく様子を見るか……。 給湯室で自分のコーヒーカップをざっと洗ってデスクに戻り、晋也は大学ホームページの更新情報に何となく目を通した。 今頃何をしているのだろう。 きっと館内でデータの整理でもしているに違いない。 いつもより疲れた顔をしているんだろうな。 それとも仕事を終えて雨の中を帰っている途中か。 ……再会した日からずっと俺は遥の事ばかり考えている。 「町田君」 突然の呼びかけに晋也ははっとした。 横を向くと、相変わらず薄汚れた白衣を身に纏う久保原が立っていた。 「これ、今日中に提出しなくちゃいけなかったよね」 「あ……わざわざすみません。明日でもよかったのに」 「いいえ。こちらこそこんな時間に来てしまって……町田君、今、笑ってました?」 教授の押印がされた書類を手渡す際、久保原が悪気もなく尋ねてくる。 晋也は肩を竦めた。 自分はそんな表情を浮かべていたのか。 仕事中、無意識の内に、たった一人に思いを馳せて。 久保原は別段気に止める風でもなく、空いていた隣の回転イスに腰を下ろす。 実験で使う薄手の手袋が入ったままのポケットに両手を突っ込んで「ひどい雨ですね」と、のんびりとした口調で言った。 「学生もロビーで立ち往生ですよ。ひどく濡れてる子もいて、一端戻ってきたのかな、あれは」 久保原が業務とは無関係な話を始める。 晋也は残っていた他の職員達の作業の邪魔にならない程度に相手をした。 久保原が事務室を去り、時計を見ると後五分足らずで定時だった。 雨は降り続いている。 風の唸る音も聞こえていた。 六時までサービス残業だ。 後は雨がどうだろうと帰宅する。 晋也はそう決めてパソコンの保存ファイルを開こうとした。 「ねぇ、町田君」 ドアの開閉音を耳にしていたので今度は驚かなかった。 振り返り、間をおかずして事務室に再びやってきた久保原を見る。 彼は晋也の横に歩み寄ると腰を屈め、小声で告げた。 「ロビーにお客様が見えてる」 「え?」 「町田君に用があるって」 席を立った晋也は湿気で滑りやすくなっている廊下に出た。 ガラス張りで、二階まで吹き抜けのロビーはすぐ先だ。 薄明るい冷え冷えとしたそこに一見して人影は見当たらなかった。 滑りかねない廊下を足早に突き進んだ晋也は公衆電話が設置されたロビーの隅に佇む後ろ姿を目の当たりにした。 「……藤野」 囁きにも等しい呼び声に、遥は、おもむろに背後へ顔を傾けた。 手にした傘は当然の事ながら服もかなり濡れている。 先日の夜よりもひどい有り様だった。 「急にごめん」 遥は自分の元へ駆け寄ってきた晋也に真っ先に詫びた。 「勤務先が医学部って聞いていたから。市内ではここだけだし。間違ってなくてよかった」 「いや、藤野、お前……何か拭くものを、」 「町田さんに話したい事があって」 遥は晋也の言葉を珍しく遮った。 真っ直ぐな視線がいつにもまして胸に突き刺さり、晋也は堪えられずについ横を向いた。 「……もう定時になるから、少し待っててくれ。帰る準備をしてくる」 事務室へ大股で引き返すと、自分のイスに久保原が座っていたので、晋也は遥の来訪を教えてくれた彼に礼をした。 「最初、学生と思ってね。だけどえらく前からロビーの片隅に立って誰かを待っていたようだったから。濡れた格好で気後れしていたのかもしれないね」 それだけ言って久保原は去っていった。 晋也はデスクの上を慣れた手つきで速やかに整理すると、他の職員に挨拶し、五時半きっかりに事務室を退出した。 遥は先程と同じ位置で晋也を待っていた。 外では強烈な風雨にキャンパス全体の並木が揺らめき、ロビーの窓ガラスが振動していた。 これ以上、遥を雨に曝すわけにはいかない。 晋也は即決した。 「タクシーで俺のマンションまで行こう」 居酒屋でできるような話の内容ではないとわかっていた。 大学からなら遥のアパートより自宅の方が近いし、悪天候を気にする必要もない。 それに職場でいつまでも考えあぐねるわけにはいかなかった。 遥は寡黙に同意した。 晋也が携帯電話で大学の正面玄関へと呼んだタクシーに乗り込み、マンションへ向かう間、彼は雨が打ちつけてくるフロントガラスを言葉少なめに眺めていた。 本当にこれでよかったのだろうか。 そもそも終わりにするんじゃなかったのか、俺は。 遥も、近づくなと言っておいたのに職場にまでやってくるとは。 ……でも、確かに、そのまま放ってはおけないだろう。 突然キスされかけて、突き放されて。 戸惑わないわけがないんだ。 遥も俺のように疑問を抱き、答えをほしがっているのかもしれない。 その答えを俺は遥に明かす事ができるのだろうか?

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