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君想フ故ニ我アリ-8
サイドテーブルにインスタントのホットコーヒーを置く。
バスタオルで顔を拭いていた遥は濡れがちな双眸を大きくし、礼を述べた。
「ありがとう」
二人がけのソファに浅く腰かけた遥はパーカを脱いでいた。
白磁の肌が今は目に痛い。
部屋に通した時から晋也はなるべく遥に焦点を合わせないようにしていた。
「藤野、半袖で寒くないか」
両手でカップを持った遥は首を左右に振り、慎重に熱いコーヒーを口にした。
晋也も一人用のダイニングテーブルに着いてコーヒーを飲む。
自分は殆ど濡れていないので上着とネクタイをとっただけの格好でいた。
サイドテーブルへカップを下ろした遥に晋也は尋ねた。
「風邪は引かないか? この間も濡れて、今日もそんな」
「大丈夫」
「そうか。顔は腫れなくてよかったな。痛んだりはしないか?」
「ねぇ、町田さん」
ソファの斜向かいで眼差しを伏せていた晋也は唇を噛む。
次に遥が何を言うのか、その些細な声色の変化で容易に察する事ができた。
「この間、どうしてあんな事」
何と答えたらいい?
一時の気の迷いとでも?
本当は十四年前から我を忘れる程求めているというのに。
「……」
晋也には答えられなかった。
無様に黙して目も合わせられずにその場で固まっていた。
「……この間の町田さんは……別人みたいだった」
フロアを見下ろす晋也に向かって遥は言葉を続ける。
レースカーテン越しに灰色の街並みが様々な明かりで瞬き始めていた。
「嫌がる相手の事もまるで視界に入っていない感じがして、ただひたすら暴力的で。少しだけ怖かった」
「……昔は怖くなかったのか?」
自ら求めていたとはいえ、虚脱寸前まで追い込まれるのに一抹の恐怖も抱かなかったのだろうか。
項垂れた姿勢のまま晋也はふと生まれた疑問を口にしてみた。
荒々しい風の遠吠えが窓の外を駆け抜けた後、遥は晋也の問いかけに端的に答えた。
「怖くなかった」
「どうして」
「町田さん、ちゃんと僕を見ていてくれたから」
濃厚な痛みに身を委ねながら仰いだ眼はいつだって遥だけを一心に見つめていた。
その視界にいるのは自分一人だけ。
他の全ては不要とされ、まるで世界に二人きりでいるような、生を実感させてくれる歪んだ幸せがその中心には絶えず息づいていた。
痕跡がつくまで捕らわれた喉元が再び呼吸を得た時、白濁する意識で見上げれば晋也はまだ自分を見つめており、恋人のような手つきで名残惜しげに首筋を撫でている時もあった。
「覚えてる、今でもはっきり。昨日の事みたいに、」
「もういい」
晋也は透かさず拒んだ。
矢庭に立ち上がって遥に背中を向けると「それ以上言わなくていい、藤野」と、もう一度制止の言葉を矢継ぎ早に足した。
かつて学校の裏庭で平然と雨に曝して冷えていく様を見下ろしていた。
手を踏みつけ、首を絞めて身悶えさせ、傲慢に愉悦していた。
抵抗しない体に跨って時には虚脱する間際まで遥を苦痛の深淵へと追いやりもした。
遥が許してくれても晋也自身、昔の自分を許せそうになかった。
「俺がお前にした事は本当に最低な行為だ」
遥の真っ直ぐな視線も背中で拒絶し、晋也は壁に突いた片手を硬く拳に纏めて告げた。
「すまなかった」と。
それは遥が最も望んでいない返事であった。
鋭い刃を隠し持つ残酷な凶器に等しかった。
ソファから晋也の背中を見ていた遥は一人首を左右に振り、まだ熱いコーヒーから漂う湯気を、次に自分の足元へ、急に定まらなくなった目線を覚束なく浮遊させた。
「謝らないで、町田さん」
瞬きをすると頬に涙が零れた。
ああ、泣いているのか、自分は。
遥は指先ですぐに頬を拭った。
しかし、またすぐに次の涙が溢れて頬を悪戯に濡らした。
壁に片手を突く晋也は涙する遥に気づいていない。
次から次に零れてくる涙を止める術がまるでわからずに遥は密かに周章した。
「僕はそんな町田さんに救われたから……」
語尾が震えてしまう。
片手で顔の半面を覆った遥は浅い呼吸を幾度か繰り返すと敢えて抑揚のない単調な声を紡ごうとした。
「俺はお前に感謝されるような人間じゃない、藤野」
喉奥から絞り出された晋也の声を聞き、遥は、掌の下で瞼を閉ざした。
……駄目だ。
目を閉じても涙は出てきてしまう。
母に絶対なる沈黙を通された時、父のいない家で一人いくつもの夜を明かした時。
過去に家族との擦れ違いで生じたものとはまた違う。
こんなにも胸が張り裂けてしまいそうな痛みを覚えるのは初めてだった。
だけど僕は……。
「藤野」
意外なまでに近くで聞こえたその呼び声に遥は目を開く。
「お前、泣いてるのか?」
壁際にいたはずの晋也が遥の真正面に立っていた。
遥は否定も肯定もできずに、止まらない涙もそのままに、やっと視線を重ねてくれた晋也を見た。
「そんな風に泣くのか、お前」
胸の内を散々荒らしていた葛藤を、煩悶を忘れ、晋也は初めて目にする遥の泣き顔に意識を奪われた。
涙を流させてしまったという罪悪感に苛まれる余地すらない。
常に安全策を練るもう一人の自分の声も届かない。
遥の双眸から溢れたそれにただ触れたくて堪らなかった。
「……町田さん」
右の頬に掌を宛がうと涙の冷たさが伝わってきた。
親指の腹で目元をなぞれば、また新たな涙が零れ出、晋也の指先を濡らした。
「冷たいな」
ぽつりと洩れた晋也の呟きに遥は眼差しを伏せた。
雨ではない、彼の感情を含んだ雫によって長い睫毛が艶やかな黒味を帯びている。
涙を纏う肌の滑らかさが掌に心地いい。
うっすらと開かれた唇が普段以上に色味を増していて、先日、重なりそうだった一瞬が晋也の脳裏を過ぎった。
「町田さんの手は温かい」
潤んだ双眸に惜しみなく見つめられた晋也は息の止まるようなひと時に思わず立ち竦んだ。
頬を撫でていた手を下へと伝わらせ、冷ややかな手触りの首筋で止めてみる。
薄い皮膚を突き上げる骨の凹凸が掌に感じられた。
求める心は同じでも術は違う。
今は温めたい。
もう、雨になど濡らさない。
誰にも傷つけさせない。
跪いた晋也は涙する遥を抱き寄せた。
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