198 / 259

彼岸の花咲くあの場所で/大人×座敷童子

満月の照る夜半。 夜着を纏った少年が足音を忍ばせて草木の生い茂る庭園を行く。 彼岸花が赤く咲き乱れるその向こうに、ひっそりとした佇まいの離れが見えた。 少年はそこを目指している。 未だかつてない緊張と興奮に真っ向から対峙して、後戻りしないよう前だけを見据えて。 冷たい風に剥き出しの足を嬲られながらも、まだあどけない面持ちに聡明な眼差しを持った少年は、板張りの縁側に手を突いて慎重にその身を乗り上がらせた。 目の前に破れ目一つない障子。 少年は、震える指先を伸ばす。 早くなる動悸に唾を飲み、唇を噛んで、障子をゆっくりと開き。 見てはならぬものを見た。 「貴方?」 突然、耳元で声がして私は目を見開いた。 広い座敷に隙間なく充満する線香の匂いがまどろんでいた感覚にすぅっと押し寄せてくる。 「こんなところで寝たら風邪引くわよ」 「ああ、そうだね……」 眠っていたのだろうか。 いや、違う……夢にしては鮮明で現実と何一つ変わらない光景だった。 「ああ、そうか」 私は無意識の内に過去の記憶を辿っていたのだ。 「それにしても、ねぇ……貴方のおじい様、すごいお屋敷に住んでいたのね」 私、まだ夢を見ているようでならないわ。 長い髪を一つに結んだ妻は、あまりにも広すぎる座敷の奥に置かれた其れを見てぽつりと言った。 外では風が草木を弄んでいる。 私は黒いスーツの内ポケットから煙草を取り出し、一本に火を点けた。 その時に指先が微かに震えている事に気づき、飲みかけの缶コーヒーの中にすぐさま落とし込んで鈍い音を生じさせた。 私がこの家に帰ってきたのは二十年振りである。 妻の目線を追って私もまた其れを見た。 この屋敷から私を追い出した張本人がその長方形の箱の中に入っている。 菊の花の中央に飾られた遺影は己の棺桶を無表情に見下ろしており、私にとってそれは滑稽にも悲劇にも見て取れず、ただ背筋を冷たく震わせる末恐ろしい光景でしかなかった。 いや、この家そのものが、私は怖い……。 「ここにおったんか」 妻と同じく過剰に肩を痙攣させ、私は、眉根を寄せて背後を顧みた。 綺麗に白髪を結い上げた、喪服姿の恐ろしく似合う老婆が私達の真後ろに立っていた。 「あら、すみません、おばぁ様。もしかして探していらっしゃいましたか?」 慌てた妻がとってつけたような笑顔を浮かべる。 杖を突いていた老婆は、それに返事をしなかった。 「……おじぃ様は、昔とあまり変わっていませんね……」 私は、通夜の間中この祖母の記憶を手繰り寄せようと必死になっていたのだが、結局何一つ思い出せずに終わった。 いくらこの家にいたのが半年余りだったからと言って、共に暮らしていたはずの祖母を目にしなかったわけがない。 それなのに、やはり、私は何も思い出せなかった……。 「毒を喰らわれとったからな」 口元に幾重も刻まれた皺がぎこちなく歪む。 「は、毒を?」と、妻が聞き返すと、今度は頷いた。 それにしても、死んでしまった祖父よりも遥かに年上だと感じられる皺の多さである。 いや、というより、棺桶の中に横たわった亡骸が八十を過ぎた老体だとはとても肯定し難かった、のだ。 「毒というより老い。が。死までは喰らえんようじゃの。所詮、寿命は寿命。そういうことか」 祖母の言葉に妻は頭を傾げるばかりだ。 しかし老人の戯言として整理でもしたのか、また愛想笑いを浮かべて、廊下を静々と通り過ぎていった使用人の背中を見送り言った。 「ここの使用人の方々、大層な数ですわね……でも、ご年配の人が多いわ。皆さん長いのでしょうね」 妻に言われて老婆は愚鈍な程の間を空けて、答える。 私はその答えに思わず戦慄した。 「主人はあれが若い者に目移りするのを恐れとった」 「あれ? 何ですか、それ」 「いずれ自ずと知るじゃろ」 「はぁ……あら、貴方、顔色が悪いわ」 私の顔を覗き込んだ妻が驚きの声を上げる。 私は未だ震える手を凝視したまま、老婆に尋ねた。 「あれはまだあそこで生きているのですか」

ともだちにシェアしよう!