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彼岸の花咲くあの場所で-3

障子の隙間から、怖気を振るう程に白い雪のような肌。 それは一人の青年だった。 薄い白地の単衣を着、髪は肩まで伸び、艶やかな喉を反り返らせていた。 青年の下にはあの人がいた。 「ッ……」 私はつい足を止めた。 この家に戻ってきてから、寄せては返す波のように緩やかに蘇る記憶の断片を拾い集めて息を呑み、桔梗の花が咲く辺りで立ち尽くした。 どうして忘れていたのだろう……。 この家を去ったから……不穏な薄暗い空気が立ち込める忌まわしい結界から逃れ、そこで目撃した幻想の如き出来事の記憶だけが封じ込められていたというのだろうか……? あの青年と共に。 『僕がいつか連れて行ってあげる』 赤い彼岸花が揺れている。 一陣の風が吹き、私の髪は乱れて額へと下りた。 あの夜の翌日に私はまたあの離れを訪れた。 あの人が外用で家を出ていたから、誰の目にも止まらぬよう頭を低くして、白昼に。 障子を開くと赤い花を口にした青年がいた。 そこは六畳分の広さのお座敷だった。 簡素なつくりとなっているが、年代物と思しき漆塗りの箪笥といった高価そうな調度品が角を占領している。 明かりを生む照明などは天井のどこにも見当たらない。 中央には皺の寄った蒲団が敷かれている。 青年はそこに腹這いとなり、彼岸花に唇を寄せていた。 「あ、あの……」 切れ長な瞳が僕を写す。 妙に淡い色合いの双眸であり、目が合った僕はどうしようもなくなって口ごもった。 緩やかな動作で起き上がった彼は、顔を傾け、薄赤い唇を開いて声を紡ぐ。 「おいで」 それは今までに聞いた事のない静かすぎる声色だった。 吸い寄せられるように、僕は彼の元へと歩み寄った。 そばに座ると、何とも言い難い優しい香りが漂ってきて、夢の中にいるような気分にさせられた。 朱色の帯で腰元を緩く締めた彼は長い睫毛を震わせて僕に微笑みかける。 「……それ、花を食べていたの?」 他愛ない僕の問いかけに彼は首を左右に振った。 さらりと、涼しげな黒髪が流れる。 「我は毒を喰らう」 青年は彼岸花の花弁を一つむしると、おもむろに口腔へと運んだ。 そして噛みもせずにゆっくりと飲み込む。 僕は不思議でしょうがなくて、花を食べる青年をただ一心に見つめていた。 一体、この人は何なのだろう……?  「お前はここに来たばかりだろう」 呆気に取られていた僕は、いきなり鼻のすぐ先に青年の顔が迫ったので息をするのを忘れそうになった。 「外の匂いがする。ここにはない匂いだ」 「う、うん……昨日来たばかりだけど」 「そうか」 そう言うなり、青年は僕の肩に額を押しつけてきた。 深く息を吸い込む際の息遣いが狭い部屋の中に響いて、静寂に呑まれる。 ヒヨドリの鳴き声が障子の向こうで途切れ途切れに繰り返されていた。 「我は、ここから外へ出た事がない」 青年はそう呟いた。 その声音があまりにも寂しげで哀しく聞こえたので、何だか僕まで物寂しい気持ちになり、つらくなった。 「じゃあ、僕がいつか連れて行ってあげる」 肩にもたれかかっていた青年が顔を上げて、僕を見る。 その時だった。 障子が勢いよく開かれたのは。 その日から半年後に私は全寮制の学園に入れられた。 休みの間も帰省は許されず、電話や手紙すら皆無の日々が続き、こうして二十年の月日が経った……あっという間に。 『孫でも油断ならん……これは私のものだ』 離れの外へと私を追い出したあの人は障子を閉める間際にそんな捨て台詞を吐いた。 その翌日には一番優しかった使用人を解雇し、無口な初老の男を監視役として半年間ずっと私の背後にへばりつかせ、行動のすべてを規制した。 二度と離れに近づかないようにするために。 でも、もうあの人はこの家にいない。 「……」 風が強くなってきていた。 梅ノ木が頼りない枝をしならせてか細い悲鳴を上げていた。 月の光を受けて障子に写る影が、不敵に戦慄いた。 私はあの離れの真正面に突っ立っていた。 血に濡れたような色彩の彼岸花が咲き誇る最中に、いつの間にか、やってきていた。 この中に彼が……あの青年がまだいるというのか。 いや、だがもう……青年ではない。 私も子供からつまらない大人へと変貌した。 だから、当然、彼もきっと。 私は踵に突っかけていた革靴を脱ぎ、板張りの縁側に膝を突いた。 障子の奥に相変わらず光はない。 沈黙と寂寥感に蝕まれているだけの部屋としか思えない雰囲気を醸し出しており、不気味であった。 だが、やはり障子には破れ目一つ見当たらない。 私はあの時と同じように震える手を伸ばし、下唇を噛んで、木枠に指先をかけた。 不意に、月が雲に隠れた。 不吉な予感がしたが私は躊躇せずに障子を開き。 見てはならぬものを見た。 青年はいた。 あの時と同じ姿のままで、蒲団の上に座り込み、切れ長の眼で私を見つめていた。 「大きくなった」と、言って、静かに微笑みかけてくる。 本当に、二十年も昔の姿と何一つ違わなかった。 「貴方は……」 私はもう震えてなどいなかった。 「私のものだ」 後ろ手で障子を閉めた私のその言葉に、青年は微笑を浮かべたまま、毒を喰らうその唇で答えを紡ぐ。 わかっていたよ、と。 そして彼は虚空に白い手を翳す。 「おいで」 妻も老婆も、あの人の眼差しも忘れ、私は、私を呼ぶ彼の元へと足を踏み出した。 end

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