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雨男に恋して/中学生×雨男

「裏の山には昔、それは綺麗な湖があってな。そこには龍神様が住んでいたんだ」 田舎の家へ和臣(かずおみ)が遊びにいく度に祖父は裏山の昔話をしてくれた。 そんな祖父も去年亡くなり、祖母が一人暮らす田舎の家へ、和臣は今年も遊びにやってきた。 中学生最後の夏休み、夏期講習の息抜きだった。 大した荷物も詰めずにスポーツバッグを肩から引っ提げて、電車に乗り、バスを乗り継ぎ、山林に囲まれるようにして小さく広がる村落の中にある、昔ながらの和風家屋へやってきた。 素麺と塩味のきいたおにぎりを平らげると、スケッチブックと2Bの鉛筆を持って、早速、和臣は昼下がりの裏山へ分け入った。 鼓膜を震わせるほどの蝉の羽擦れ。 夏の山は太陽を反射してどこかしこも緑が眩しく、まるで双眸を射抜くようだ。 山道で立ち止まった和臣は肩に引っ掛けていたタオルで汗を拭い、古ぼけた商店で買ってきたペットボトルを勢いよく傾けた。 祖父を見送った去年と比べて少年の身長は著しく伸びた。 たまに体の節々が痛くなる。 伸びやかな手足はまだそれほど日に焼けてはいないが、恐らく今日一日で早変わりすることだろう。 見晴らしのいい場所に落ち着くと、木陰の元、和臣は草の上に大胆にあぐらをかいてスケッチブックを広げた。 美術部に入部している和臣は忽ちデッサンに夢中となる。 汗をかいていた分、肌の上を吹き抜けていく風がとても心地いい。 今回の息抜きにいい顔をしなかった母親の眉間の皺、大量の英単語、難解極まりない数式が清流で流されたかのように、束の間、忘れ去られていく……。 描き始めて半時を過ぎた頃か。 「うまいな」 和臣はびっくりした。 堰を切るように振り返ると、背後に、人がいた。 「鉛筆でそうも綺麗に描けるものなんだ」 男だった。 この暑い中、Tシャツの上に長袖を羽織っている。 やたら色が白い。 足首からサンダルを履いた裸足の甲にかけて、まるで、白い絵の具でも塗りたくったかのような色合いだ。 手首も首筋も顔も。 そのせいなのか、唇が、鮮やかな赤に見えた。 「お前、地元民?」 「……ううん、ばぁちゃんちに遊びにきてて」 「ふぅん。まぁ俺もそんなとこだけれど。高校生?」 「……ううん」 「え、中学生? でかいな」 無口そうに見える能面顔で、なかなか驚きが引かずに鼓動を加速させている和臣を見下ろし、喋りかけてくる。 そして、それまで地上へ視線を向けてばかりいた和臣は、男の肩越しにやっと空の変色に気がついた。 「やばい」 「え、何が?」 「雨が来る。早く下りないと」 「あ、そうなの?」 そんな会話を交わしている間に頬にぽつりと来たかと思うと。 凄まじい夕立が瞬く間に視界を覆った。 雨に濡れた肌の色は海中で漂う魚の鱗にも似ていて。 「山の天気、恐ろしいな」 まるで燐光を発しそうなほどの白さで。 「どうした?」 山中にある古ぼけた神社のお堂で和臣は彼と雨宿りしていた。 煤けた板張りの床を踏む、サンダルを投げ捨てた裸足。 蒸せるような草いきれが満ちていた。 「……別に」 雨に濡れてしまったスケッチブックをそばにして隅に座る和臣は、すぐさま顔を逸らし、彼の肌に魅せられていた視線を慌てて断ち切った。 まるで滝じみた雨音が轟々と鳴り響いている。 近くで雷鳴もしていた。 「俺もお前も泳いだみたいに濡れたな」 彼はそう言って笑う。 ぎこちなく視線を戻してみれば赤い唇が三日月を描いていた。 閉ざした格子戸の向こうで稲光が走った。 程なくして響いた雷鳴。 直に近づいてくるかもしれない。 「絵、見せてくれよ?」 隅に座る和臣のそばで彼はしゃがみこんだ。 濡れたページを捲り始めた、骨張った手。 黒髪の先から雫が滴り落ちて紙面をさらに濡らす。 和臣は彼の手首を握った。 スケッチブックを見下ろしていた彼は顔を上げ、震える和臣を、見た。 「寒いのか?」 掌で抱きしめたその手首の細さに和臣の熱は増した。 笑う彼の唇に煽られて、震えながら、口づけた。 「冷たいのに」 板張りに押し倒された彼は笑みを絶やさずにその掌を和臣の熱の拠り所へ宛がう。 「ここは熱い」 ああ、眩暈がする。 脳が溶けていくみたいだ。 和臣は彼に夢中になった。 嗄れていた喉を潤すように、その肌に触れた。 初めて他人の熱の中に我が身を沈めた。 「はぁ……」 板張りにうつ伏せた男はすでに長袖を脱いでいた。 波打つ背中に張りつく半袖のシャツ。 薄い生地越しに見え隠れする模様。 腰から下が彼の熱で蕩けるような心地を貪りながらも、次の好奇心が五指を唆し、シャツを捲り上げてみれば。 白い背中に彫られた墨の鱗。 しなやかな黒き龍がとぐろを巻いて躍り上がっていた。 奥深くまで打ちつければ、龍は、その背の上でまるで命あるもののように蠢いた……。 祖母に手を振って別れを告げ、バスを乗り継ぎ、和臣は帰りの電車に乗車した。 スポーツバッグの底には湿り気を帯びたスケッチブックが沈んでいる。 最後のページに書かれたもの、それは。 一匹の龍を従えた一人の男だった。 end

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