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罪深く恋して/淫夢魔×若旦那さま

闇の中でカラスの翼にも似たインバネスが翻った。 御堂一弥(みどういちや)は己の懐で冷たくなっていく姉を抱きしめ、冷えた夜の真ん中を突っ切っていく黒き其れの背中を凝視した。 双眸に刻まれた世にもおぞましき光景を必死で追い払うかの如く。 花瓶に活けられていた白百合が微かな音を立て、細長い茎が無残に折れた。 長椅子で微睡んでいた一弥はツと顔を上げ、哀れな白百合を視界に写して眉根を寄せた。 「若旦那様、私がなさいますよ」 折れた白百合を取り出そうとしたら女中が駆け寄ってきた。 あんまりにも申し訳なさそうに両手を差し出してくるので、困らせてはいけないと思い、一弥は白百合をそっと手渡した。 清廉な色合いで柔らかな芳香を放つ花。 生前、うら若き姉が好いていた花。 父親に呼ばれた一弥はその白く繊細な線を描くおとがいを物憂げに傾け、書斎へ向かった。 「お前、みどりさんとの約束を破ったそうだね」 ここは大学教授である父の安息の場所。 当の主は着流し姿で日の差し込む窓辺に佇んでいた。 「どうしてだね」 「約束など、元々しておりませんでした。彼女が勝手に……」 父親の横顔に走った失望という感情を目撃し、一弥はやむ無く唇を閉ざした。 「みどりさんは私の恩師に当たる人の孫なのだよ。向こうは、とてもお前を気に入ってくれている。もっと会ってあげたらどうだい」 一弥が黙ったままでいると彼はため息をついた。 「変わらないな、お前は……いや、変わってしまった」 一弥は草木が整然と刈られた庭を見下ろした。 外に出れば、麗らかな春風を一身に感じられるに違いない。 「まだ桜子(さくらこ)の死を引き摺っているのか」 一弥は切れ長な眼に感情の色を湛え、再び父の横顔を見やった。 「もう二十年経った。突然の死だった。お前のせいではない。誰も悪くない」 「いいえ」 「頑なだな。一向に意見を変えない。誰も彼も責めている」 違います、と一弥は口の中で呟いた。 私はあのケダモノを呪っているのです。 「おかげで私より先にお前がそのような姿となってしまった」 一弥は三一歳という年齢にはそぐわない見事な若白髪だった。 虚弱な体質で顔立ちは表情のない能面さながら。 長男という風格をろくに備えていない、物書きの真似事ばかりやっている御堂家の不出来な息子であった。 しかし不出来と謂えども子は子。 一弥の父はこの不憫な息子が一番気がかりであり、決して勘当するまでには至らなかった。 「それでも。生きていてくれるのならそれでいい」 一弥は束の間目を閉じた。 姉を失って傷ついたのは自分だけではない。この人だって、あんなに泣き叫んで神を呪って慟哭したのだ……。 「みどりさんに謝りにいってきます」 一弥は俯く父に背を向け、書斎を後にした。 闇夜を切り裂くように鋭利な三日月が地上を見下していた。 荒々しい風が家々や木々に容赦なく吹きつける。舞い狂う葉は天高くに吸い込まれ、塵芥と共に漆黒へとかき消えた。 そんな中、一羽の禽獣が風を切って空を飛翔していた。 目を凝らしてみれば矢鱈大きな鳥だ。 煽られる羽の先が朧な月明かりに照らし出されている。 眠る人々の頭上で暗夜を泳ぎながら、其れは確かに、光る牙を覗かせて小さく笑った。 眠れない。 一弥は寝返りを打って耐え難い苦悶の声を洩らした。 わかっている、理由は。 あの夜が、このような夜だったからだ。 おぞましい出来事が起こった汚らわしい夜。 「姉さん」 何もかもがひどく耳障りでここから消え去ってしまいたいと思った。 しばらく顔を覆っていた一弥は寝台を出て自室を抜け、階下の炊事場へと向かった。 喉が渇く。 水でも飲まなければ気が狂いそうだ。 覚束ない足取りで薄暗い通路を進み、そして、ふと視線をさ迷わせ、予期せぬものを目の当たりにした一弥は立ち止まった。 何者かが応接間の隅に立っていた。 ポキリ、と乾いた音が静寂に響く。 白百合を手折る際に紡がれる無残な音色だった。 「こんばんは」 一弥が声をかけるより先に其れは開口した。 「あの夜も、風が強かった。私はそれに逆らってこの屋敷を訪れた」 「……」 「貴方の姉君を咀嚼するために」 一弥は即座に理解した。 起こり得るはずのないこの状況を。 悪夢に塗れたこの招かれざる客人を。 装飾品として壁に飾られていた光り輝く銀のナイフを掴み、一弥は、迷わず突き進んだ。 黒いインバネス、白百合を持つ異様に白い指先、人、人だ、だがしかし、其れは人の目をしていない。 これは悪夢そのものだ。 「そう。貴方ならわかると思っていた」 黒い衣服を纏う胸に突き立てられたナイフ、赤く滑る己の手、次に、其れの目。 「貴様」 「だからこのような事をしても意味がない」 一弥の手の上からナイフの柄を握り、其れは、自分に突き立てられている刃をゆっくりと引き抜いた。 「本当に懐かしい。貴方は何も変わっていない、一弥」 吹き出ていたはずの血がいつの間にか止まっている。 見目麗しい男の顔をした其れは紫の瞳を愉しげに瞬かせ、一弥の顔を片手で支え。 其れは一弥の薄赤い唇に口づけた。 風の遠吠えに紛れ聞こえてくるのは少女の呻き声。 うつらうつらしていた少年は寝台から飛び起きた。 暗闇に目を凝らし、悪い夢に魘される姉の様を思い描くと心抉られて、自室の扉を開き隣の部屋へと急いだ。 「姉様」 少年は見た。 翻るレースカーテン、差し込む月明かり、乱れた寝台のシーツ。 薄闇に揺らめく肌色、全身が真っ黒な毛に覆い尽くされた異形の其れ。 恍惚と苦痛の狭間で悶絶する淫らな姉の顔。 紫の瞳が笑っていた。 「貴様が殺した」 一弥はかつてない憎悪の眼差しとなって言い放つ。 「貴様が桜子姉さんを汚し、そして殺した」 「ええ、貴方の言う通り。生気を奪うために犯した。私はそうして太古から生き長らえている」 獣と美しい男の姿。 どちらも常軌を逸脱した、狂気じみた貌。 「どうして、何故、姉さんだったんだ」 「貴方の愛する人だったから」 聞き返そうとした次の瞬間、目元を凍てついた掌で覆われた。 「今は眠れ」 唐突に、膝の力が抜ける。 瞼が急に重くなり、湧き上がっていた怒りが意識の外へ速やかに遠ざかっていく。 抗えない睡魔に侵された一弥は眠りについた。インバネスを握り締めた手もそのままに。 其れはぎこちなく床へと崩れ落ちるまでの一弥を見下ろしていた。 手折られた白百合が仄かな煌めきを放っている。 それは上空で地上を嘲笑う三日月の光にとてもよく似ていた。 「その憎しみが貴方の中で私となる」 両手以外は脱力している一弥を抱きかかえると、寝物語を聞かせる語り手のような口調で囁き、其れは一弥の額に接吻した。 「私を忘れないで、一弥」 庭に集う鳥達のささめき。 目を開けると、春風に音もなく翻るカーテンがやけに鮮明に視界に写った。 「!」 窓辺に佇む黒衣の其れが見え、一弥は飛び起きた。 しかし瞬きして見直してみるとそこには何もなく、生暖かい風が吹き抜けていくばかり。 春の陽気が見せた白昼夢に一弥はただただ自分の寝台で硬直するしかなかった。 「……」 ふと、広げた掌に残る赤黒い跡に気づいた。 翻るカーテンの様に黒い翼を思い描けば、その手に蘇るのは。 暗黒たる闇夜が流した血の温もりであった。 end

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