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AWAKEN EYES/客人×吸血鬼
「此の世を覆す力を持った妖魔が現れる」
鐘の音が鳴り響く中、盲目の預言者は神々しい荘厳さに満ち溢れた幻想的なる大聖堂の片隅で頭を垂らし、世界が選び取るだろう一つの行き先を見つめて呟いた……。
常緑樹の木々が鬱然と枝葉を張り巡らせる深い森の懐で彼は倒れていた。
霧が降りた真夜中、上空で覚束ない輝きを纏う月に照らされて、サエラは静かに息を呑む。
力尽きたその者の頬を、一筋の涙が伝っていた。
呪いに等しき永遠を生きてきた。
日から日へと跨ぐその一歩は苦痛。
色褪せたモノクロームの回想は虚無を焼き付けたネガティブ。
誰か、私を殺して……。
「……」
長椅子に横たわっていたサエラはゆっくりとその身を起こした。
絹糸のように美妙たる淡い色の髪がさざめいて、しなやかな背にかかる。
半月の弧を描く蛾眉がぴくりと動き、縦状の瞳孔を持つアイスブルーの瞳が夜明け前に広がる薄闇の奥を密やかな視線でもって貫いた。
どうやら客人が目を覚ましたらしい。
サエラは、手早く髪を結うと緩慢な身のこなしで長椅子を降りた。
衣服の上に重ねたヴェルベットのガウンを翻させて凍てついた大広間を横断し、螺旋階段を上って、日の光を浴びた事のない真紅の通路を進む。
そこには空間を彩る絵画の類も見受けられず、ぼやけた月明かりが漆喰の壁面にただ吸い込まれるばかりであった。
館に住むのはサエラ独りだった。
もう何世紀も昔から、ずっと。
太陽の呼吸を知らない、暗い牢獄じみた住処だった。
……夜明けまで残り僅か。
館内の暗幕がすべて締められるのかと思うと絶望感を予期し、延々と繰り返される決め事に途方もない遣りきれなさを覚える……。
やがてサエラはある部屋の前に辿り着いた。
二度ためらいがちにノックをし、沈黙を通した室内にそっと眉根を寄せて、彼は縁飾りに木彫りの花輪が施された扉を開いた。
趣のある重々しい調度品が壁際を占領しており、暗幕が取り付けられた窓からは鬱蒼とした暗い森が覗いている。
窓のそばには寝台が置かれている。
彼の客人が横になっていた。
サエラは足音もなしに部屋の中へと入り、その客人を見下ろした。
「欲しいものがあるのなら好きなだけ持ち去ればいい」
客人の瞼が動く。
しかし目は閉じられたままで、サエラは気にもせずに続けた。
「だから、ここを出たら二度と戻ってこないでほしい」
それだけを告げて、サエラは踵を返し部屋を後にしようとした。
「俺を拾ったのはあんたか?」
サエラは振り向いた。
それまで何食わぬ顔で寝台に横たわっていた彼が半身を起こし、こちらを見つめていた。
「……そうだが」
「へぇ。よく運べたな、その腕で」
金色の眼を煌めかせて彼は笑った。
頬に落ちていた雫はすでに消え失せている。
「あんた、名前は?」
あまりにも唐突すぎる問いかけにサエラは力なく答えた。
「……サエラ……」
すると、客人は実に鮮やかな笑みを浮かべ、一重の双眸で陰鬱とした静寂を平然と射抜いてみせた。
「俺は亥月 だ」
太陽が昇る。
寂しい空白ばかりが目立つ館の中を漆黒の其れが歩む。
頭から黒いヴェールを被り、闇を塗りたくったかの如き黒衣の裾を真紅の絨毯に引き摺らせて、人の形をした其れは館中の暗幕を締めて回る。
朝が来るのだ。
サエラは息を潜め、長椅子の上に蹲った。
時の決め事によって繰り返し齎される絶望感に打ちひしがれ、しばらくそのままじっとしていたら、館の中は漆黒の其れによって出来合いの闇に包まれた。
螺旋階段の上り口では大理石の彫像が門番じみた眼差しを宿す。
秒を刻む事を当の昔にやめた柱時計はただそこにあるだけで、水すら得られない白磁の花瓶は今日もまた無意味を喰らい続ける。
「陰気臭いところだな」
声がする前に、サエラは顔を上げてその客人を、亥月を視線の先に捕らえていた。
「あれは、一体何だ? 真っ黒いやつ……声をかけても何も反応しねぇ。相当な人嫌いか?」
亥月は長身で均整のとれた雄々しい体躯に丈の長いジャケットを羽織っていた。
大して物珍しそうにしているわけでもなく、至って飄然としたもので、見知らぬ場所に少しも臆してもいないようだ。
褐色の首筋を反らせて無表情に大広間を見回していた。
「あれは私の影だ」
自分よりも背の高い柱時計を眺めていた亥月は、氷塊にも似た鋭利な光を放つ一重の双眸をサエラに向けた。
「契約して、身の回りの事をさせている……お前を運んだのもあれだ……だから私に影はない。そもそも不要なものだ」
「影が不要? 面白い事を言うな」
真上に逆立てたダークブラウンの髪を弄って、亥月はこの世のありとあらゆる千姿万態を嘲笑うように唇を歪める。
「ところで、腹が減ったんで厨房を物色させてもらったんだが、生憎何もなかった」
「……何が欲しい?」
「食うモンと酒、かな」
サエラの視線が動いたので亥月は背後を顧み、大広間へと入ってきた其れを目の当たりにした。
滑るように速やかな足取りで其れは亥月の傍らを通り過ぎ、サエラの正面へとやってきた。
黒いヴェール越しに見えるのは曖昧な暗がりばかりだ。
皮膚も髪もなく、まるで形ある闇が黒衣を被っているような……。
「……おい、行っちまったぞ」
サエラが言伝を聞かせるのかと思いきや、彼は無言のままであり、其れは来た時と同じ様子で大広間を出ていってしまった。
「私の影だ、近くに寄れば自然と意志を汲み取る。影とはそういうものだろう……」
手触りがよさそうな上質のガウンを布張りの背もたれに擦らせて、サエラは言う。
亥月はジャケットのポケットに両手を突っ込んでわざとらしい相槌を打ってみせた。
「仰る通り。確かにこの館の中で影は不要、あってもなくても同じ。何故なら四方八方暗闇だから、な」
天井から吊り下げられた豪奢でありながらも光のないシャンデリアが二人を見下ろしている。
亥月はこの館を覆いつくす闇に染まりきった主を直視している。
サエラは、蒼茫たる眼に自分を見下ろす客人を写して、ただじっとしていた。
「……その目は」
伸びてきた手が顎を掴む。
さらに上へと持ち上げられて蝋と同じ色をした皮膚に爪の先が食い込んだが、サエラは顔色一つ変えなかった。
「やっぱり、妖魔か。道理で人らしくないと思った」
「……見当がついていたのなら今更驚く必要はない」
「まぁ、な。確かにこのご時世、妖魔なんぞいくらでもいる……だがな、吸血鬼は希少価値に値する」
素性不明の客人に対して、サエラの瞳が今初めて険しさを孕んだ。
「妖魔随一高潔な眷属。金にも名声にも興味がなく、何よりも太陽を恐れて森の奥深くで血縁同士寄り添い合って暮らしてると聞いていたが……あんたは独りか?」
「……見ての通りだ」
「どうしてだ、理由は?」
その問いかけを発した直後、亥月はかつてない戦慄に全身を束縛された。
サエラを見ている双眸、触れている指先、己の命を保つ心臓に、それが大いに流れ込んできたからだ。
皮膚を粟立たせる程の凄まじい激昂。
「……」
亥月は何も言えずにサエラから離れた。
サエラは表情を歪めるでもなく俯いて、立ち上がり、螺旋階段を上っていった。
主のいなくなった大広間は虚ろだった暗闇からただの暗闇へと戻っていた。
「私の血の欲望は底つく事なくこの喉に纏わりついて離れませんでした……。
ですから私は独りになったのです。
もう大事な者を裏切らぬよう、独りで、この永遠を紡いでいかなければならないのです」
寝台の上でサエラは目を覚ました。
透ける天蓋の中で体を起こし、物憂げな眼差しで虚空を見据えた。
もう一人の自分が夢の深奥で懺悔をこぼす。
時折眠りの最中に垣間見る、鳥肌が立つような悪夢だった。
一体、誰に懺悔するというのだ……。
サエラは震える我が身を抱きしめようともせずに、ただただ己を詰った。
神に祈りを捧げられる立場でもないこの私が、懺悔という行為に逃避できるはずもない。
私はただ罪を背負って生きていけばいい……独りで。
虚に塗れた暗闇の中で。
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