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AWAKEN EYES-2
曲がりくねった螺旋階段を下りて大広間を通り過ぎ、厨房に出向くと、亥月が卓に肘を突いて食事をとっていた。
「上等のワインだ、あんたの影は目利きなんだな。しかも箆棒に足が速い」
パンが入っていたはずのバスケットは空となっており、亥月は瀟洒なグラスで赤ワインを飲み耽っていた。
この館で最も凍てついた場所なのでフードを目深に被っている。
黒と白のタイルが入り交じるフロアの上で組まれた足は矢鱈と長く、小刻みな揺れを刻んでいた。
「……すまない」
突然、前触れもなく詫びられて亥月は一瞬すべての動作を止めた。
「すまないって……ああ、あれは、俺の方が謝るべきだろ」
ワインのボトルは半分以上空けられていたが酔いは回っていないらしく、亥月は平淡な口調でサエラの侘びを拒んだ。
「ぶっ倒れてるとこを拾われて休ませてもらったっていうのに、不躾な質問だった。自分でも反省してるよ」
反省しているのかどうか疑わしい物言いであったが、亥月はワインを含みつつ真っ直ぐにサエラの蒼い瞳を見返してそう言った。
サエラは微かに頷いてその場を去ろうとしたが、亥月に呼び止められて、体ごと彼の方に向き直った。
「一人で飲むのもアレだろ。話し相手になってくれよ、サエラ」
「……私はお前に関心がないから話す事など何もない」
「あんたは別に話さなくたっていい、そこにいてくれりゃあいい」
切れ長の蒼古たる瞳は少しためらいがちに伏せられて、幾度か瞬きした。
亥月はグラスを宙に止めて待っている。
サエラは緩やかな動作で数年振りにその卓に着いた。
「見慣れると健気なモンに思えてくるな、あの影は」
残っていたワインを一息に飲み干して、亥月はまた新たなる赤い液体をグラスに注ぎ、小さく笑った。
「それにしても容赦ない物言いだな。関心がない、か。こんな森の奥深くにまで何しにやってきたのか気にもならねぇなんて、冷たい奴だ」
サエラは黙したままでいた。
上機嫌と不機嫌の境目に図太く落ち着いたままの亥月はワインを再び飲み始める。
瑞々しい果実は口にしようとせず手の中で弄ぶだけで、たまに掌で押し潰しては零れ出た果汁を唇で掬い取っていた。
隙のない男。
やっと、サエラは亥月に対する感想を胸の内で言葉に言い表した。
「この森は海より深いかもしれない」
突然、亥月がそんな台詞を吐いた。
「深すぎてとことん迷いそうだ。気がついたら奈落に踏み出してるかもしれない」
「……奈落」
「そう、どう足掻いたって抜け出せない落とし穴さ。だから落ちたら最後だ。あんたは大丈夫か?」
答えを全く求めていないような調子でサエラに問いかけると、亥月は手の中に残る果肉の残骸を完全に握り潰した。
閉じられていた暗幕は今、開かれた。
夜の来訪と共に聖なる破滅が舞い降りる。
その足音を耳にして、窓辺の肘掛け椅子にもたれていたサエラは呟く。
「欲しいものがあるのなら好きなだけ持ち去ればいい……」
今夜も霧が降りていた。
ぼやけた月は震える水面に写し出される仮初の姿であるかのようだ。
獣達は静まり返り、森全体が悄然とした沈黙に包まれている。
ノックもなしに扉が開かれても、サエラは窓の外を目にしたままでいた。
「いい夜だな、サエラ」
サエラの部屋を訪れた亥月は気後れするどころか悠然とした足取りで中に入り、後ろ手で扉を閉めた。
「影がこの部屋に入り浸ってるからあんたの寝床だとわかった……ああ、綺麗な天蓋だな」
冷え冷えとする部屋の角に設置された天蓋つきの寝台を見、亥月は心にも思っていないような口振りでそんな事を言った。
サエラはそっと顔を傾けて、彼が手にしている凶器を見つけ、美しい双眸を細めた。
「吸血鬼と知って蒐集家に売り渡したくなったか……?」
「確かに、な。お綺麗な妖魔の死体は高く売れる。生きてるのは飼育が面倒だが剥製なら崇高な芸術品だ。剥製にされるって、どんな気分だろうな?」
「……どうでもいい」
屍がどうなろうと知る由もないし、己の死後になど何の執着もない。
殺してくれるのならそれでいい。
「死にたかったのか?」
椅子の真横にまで歩み寄った亥月の問いにサエラは頷いた。
亥月は、笑った。
「期待に沿えなくて悪いな」
サエラのすぐそばで亥月は光り輝く小型の刃を握り締める。
次の瞬間、彼は一寸の迷いもなく無情な刃先を走らせた。
何を血迷ったのか、己の手首の皮膚へ、一文字に。
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