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AWAKEN EYES-4
安らかな眠りの次に訪れたのは深すぎる罪悪感であった。
天蓋で守られた寝台の中央、口の中に残る彼の者の血の味に悩まされ、サエラは正気を保とうと必死になった。
体液で湿ったシーツをあらん限りの力で握り締めて無様な程に煩悶する。
血を飲んでしまった。
あれだけ禁じていたのに、もう、あの一口で最後にしたはずだったのに。
誰よりもかけがえのない愛しい人の血で。
「……」
亥月は部屋にいなかった。
ただ、彼の残した跡が剥き出しの肌に見受けられるだけで、サエラは言い知れない感情に襲われて眉をひそめた。
何だったのだろう、あれは……あれが、人間の煩悩を満たすという行為か。
私と同様に浅ましい姿となっていた。
サエラは長い髪をかき上げてため息をついた。
裸身にガウンを羽織って暗幕が引かれているのを確認し、天蓋を払うと黒暗々とした通路へ出る。
気配を探って亥月の居場所を察知すると、真っ先にそこへ向かった。
亥月は厨房でワインを飲みながら寛いでいた。
「……平気なのか、体は」
昨日ここで食事をとっていた時と全く同じ様子の亥月は、「何とか」と、サエラに飄々と答えた。
「少し首が痛いけどな」
「……すまない」
「お互い様だろ。俺だってあんたを犯した。それに、誘ったのは俺だ。あんたは何も悪くねぇよ」
サエラは厨房の入り口から中へと踏み出せずにいた。
亥月の皮膚に滲む血がまだ強い香りを放っている。
近づけば、また昨夜と同じ状況に陥りそうで恐ろしかった。
亥月が立ち上がったのでサエラは一歩身を引いた。
それに気づいて、亥月は赤く傷ついた唇の片端を吊り上げた。
「何を怖がってる? あんたは妖魔だろ?」
「……人間のお前にはわからない」
亥月は鼻で笑った。
グラスを卓に下ろし、被っていたフードを後ろへ払い除けてサエラに詰問した。
「血を飲むのが怖いのか? どうしてだ。どうして、何のために自粛する必要がある?」
「人間のお前にはわからない」
サエラはまた一歩後ろに下がると項垂れた。
亥月は一歩前へと踏み出し、美しい妖魔の背後に立ち上る負のオーラを感じ取って、面白くなさそうに舌打ちした。
「これは軛 だ」
グラスに注がれたワインの色さえ正視できない……。
サエラは項垂れたまま、己の定めを亥月に吐露する。
「この忌まわしい本能を抑制して生きていくのが私達の掟……血を飲むのは禁忌。ただ永い時を淡々と越えていくだけのもの……血への渇望に嘆きながら」
「いっそ忠実になったらどうだ」
それは誰にも告げられた事のない言葉だった。
サエラは大広間の円柱に背中を寄り添わせて自分の足元ばかりを見つめた。
今まで乗り越えてきた渇望に伴う苦痛を、その度に蘇った古の過ちを。
昨日の夜でそれらすべてを踏み躙ったようなものだった。
「……もう去れ」
「冷たい事言うなよ、サエラ。俺にはもうどこにも帰る場所がない」
亥月が笑いながら言う。
サエラとの距離を着実に縮めつつある彼は、その過程を心底楽しんでいるようだった。
「まだ瘡蓋もできてない……新鮮な傷口だ」
「やめろ、聞きたくない」
「本当は飲みたくて堪らないんだろ?」
円柱に背中を押しつけたサエラは薄闇を焦がすかの如き凄然たる眼差しとなって、低く呟いた。
「……そうだ、本当は、切り裂きたい程にお前の喉を望んでいる」
褐色の首筋に乱杭歯を刺したあの感触が忘れられない。
喉を通り過ぎていった血の温み、あの芳醇たる味わいが、あるべき理性を蝕んで無きものにしようとする。
「さすがに切り裂かれるのは御免だな」
円柱に手を突いて亥月は間近にサエラを見下ろした。
「でも、吸われる時のあの感覚は悪くなかった……」
サエラの頬にかかっていた髪を一束手にとって、亥月は蒼く凍りついた双眸を斜め上から覗き込んだ。
黒く縁取られた眦は艶治な程に切れ長で、頬に影を落とす睫毛は一本一本が繊細だ。
多くの客を手玉にとる高級娼婦、海原に漂う可憐な水妖、高音の限界を知らぬ歌姫。
これまで見てきたどの妖魔も敵わない。
今にも透き通ってしまいそうな蝋の肌も、艶めく唇も。
すべてが美しすぎた。
「掟、ねぇ……一体誰に与えられた掟だ? 神か? それとも人間か?」
肌と髪の狭間に手を差し入れて、亥月はサエラの冷たい体温を掌でなぞる。
「馬鹿馬鹿しいな、サエラ。どうして妖魔がそんなモンに従わなきゃならない? 掟だとか禁忌だとか、人間が口にする御託を述べてあんたに何の得がある? 俺にわかるよう説明してくれ」
「……人間のお前にどう説明しろというのだ」
血管の脈動に鼓膜を脅かされ、足元を睨み据えたままでいるしかないサエラの首筋を、亥月は両手で緩く締めるようにして愛撫していく。
「あんたは本気で俺を人間だと思ってるんだな……でもそれは間違いだ。俺の父親に値するモノは下劣なインキュバス、ついこの間までたくさんの女を睡眠中に犯して生気を奪いまくっていた下級妖魔……淫夢魔。だから俺は人間じゃない。人間にも妖魔にもなりきれない、どっちつかずの出来損ないだ」
予想もしていなかった事実であるが驚くのも億劫で、サエラは視線だけ動かし、金色の眼と対峙する。
亥月は首筋から肩へずらした両手でサエラのガウンを足元に落とした。
「飽きるまで飲めばいい。俺はそう簡単には干乾びない。ま、下劣な淫夢魔の血でよければの話だけどな」
「代わりに私から生気を奪うのか」
「まさか」
一糸纏わぬ裸身となったサエラは、これまで保ってきた忍耐を踏み躙ろうとしている自分に吐き気を覚えた。
「俺はサエラが欲しい」
しかし昨日の夜、私はすでに二度目の過ちを犯した。
「堪らないんだ、全部。血に狂うあんたを見てると俺も狂いそうになる……」
いっその事、狂ってしまおうか。
何も知らぬこの者の血で。
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