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AWAKEN EYES-6
ガウンの前を締めて組紐で雑に髪を結い、サエラは毅然とした目つきで前方を見据えた。
闇に乗って漂ってくるのは幼い血。
まだ年端もゆかない誰か……苦しんでいる。
つらい痛みに混乱している。
サエラは館の前へと戻ってきた。
門前に、何かが倒れている。
赤黒い血が周囲の緑に見受けられ、地面にも小さな染みが出来上がっていた。
サエラに遅れてやってきた亥月は、倒れているそれを見下ろすなり、鋭い双眸により鋭利な眼光を孕ませた。
「銀狼か?」
サエラは答えなかった。
光沢のある真っ白な毛並みを持したその狼は、まだ子供であり、右の後ろ脚に怪我を負っていた。
銀色の柄を持つ刃が深く突き刺さっており、雪のような毛色に鮮烈なる赤を散らしている……。
「おい、サエラ」
サエラが銀狼の仔に触れようとしたので亥月はつい声を上げた。
銀狼という動物は非常に温厚な性格ではあるが、今は手負いだ。
鼻頭に皺を寄せており気が立っているのは一目瞭然で、その行為は賢明でないと思われた。
しかしサエラは亥月の警告を受け入れなかった。
何も言わずに落ち着いた物腰で左手を伸ばし、倒れながらも牽制の唸り声を上げる銀狼の仔にそっと触れる。
その瞬間、白い獣は牙を剥いた。
「!」
見ていた亥月は息を呑んだ。
が、腕に牙を立てられても身じろぎ一つしないサエラに触発されて、自分も呼吸さえ殺してその場に立ち尽くした。
「……」
裂肉歯が容赦なく左腕に食い込む中、サエラは怯えに蝕まれた黒水晶の瞳を見つめる。
銀狼の仔は、蒼茫たる泉を彷彿とさせる眼に出会い、唸るのをやめた。
幾筋かの血がサエラの白い手首を伝い落ちていく。
「……すまない」
サエラは一息に刃を引き抜いた。
血肉を裂かれていた幼い獣は痛切な鳴き声を迸らせる。
だけれども無様に転げ回るような態には至らず、サエラの腕に縋るように噛みついたまま、痛々しい様子で痙攣した。
「お前は強い……だから大丈夫だ」
サエラの囁きが功を成したのか、痙攣が止まった。
「群れに戻れ」
銀狼の仔はゆっくりとサエラの腕から口を離し、傷ついた後ろ脚を地面に踏ん張らせ、ぎこちない様子でその身を起こす。
「皆、待っているから……」
前へと踏み出して、よろめき、しかし倒れずに、銀狼の仔は仲間が待つ場所を目指して館の前から去っていった……。
「あんたが選ばれし妖魔なのかも」
膝を突いて幼い獣の行方を見守っていたサエラは亥月を仰ぎ見た。
隣に腰を下ろした彼は、サエラの手の甲にまで滴っている血の流れに舌打ちし、落ちていた銀の刃を拾った。
柄のところに施されたクロスの紋章が月明かりを受けて不敵に光る。
「食い千切られなくてよかったな」
「子供の牙だ、そのような脅威はない」
「あんた、獣の血だったら平気なのか?」
サエラは無言で立ち上がった。
滴る血もそのままに鉄柵を潜って館の中へ戻ろうとする。
亥月は、そんな彼の右腕を掴んで引き止めた。
「私は妖魔と人間その双方の血しか飲めない、これで満足か?」
振り向きざまサエラは亥月をねめつけて言い放った。
風が吹く。
地上の果てから還ってきた風が、強く。
木々が騒ぎ、枝をしならせ、葉を舞い狂わせる。
「俺にも飲ませろよ」
亥月の欲求にサエラは蒼い双眸を硬直させた。
「……お前が私の血を飲むというのか」
亥月はサエラの左手をとると、驚く程に丁重な扱いで自分の目の高さにまで持ち上げた。
「ああ、そうだ」
「……馬鹿げている」
「そうだな」
ガウンが捲れて手首の血管が露になる。
そこには鮮紅色の跡が連なっており、亥月は、一抹の躊躇もなしに瑞々しいサエラの血を口に含んだ。
立場が逆転している……。
サエラは己の血に唇を這わせる亥月を見上げ、痛みの代わりに訪れたあの悩ましい感覚に再び襲われて、眉根を寄せた。
何かがおかしい。
この異変はあの夜の破滅が生み落とした残滓に過ぎないのか、それとも……。
「あんたの血を飲むのも悪くない、サエラ」
それとも、新たな破滅か。
貪り、貪られ、そうして夜は過ぎた。
漆黒の召使いにより館の暗幕が締められて数時間が経過した頃、サエラはおもむろに目を覚ます。
隣では亥月が眠っていた。
「……」
天蓋に覆われた寝台の上、サエラは静かに起き上がるとその寝顔を見下ろした。
上がり気味の眉が眠りについているにも関わらず危うい気迫を醸し出している。
裸の上半身は褐色の艶と程よい筋肉を擁しており、律動的に浅く上下していた。
彼も夢を見るのだろうか。
他愛ない疑問が生まれ、サエラは少しの間それを持て余し、別の疑問に意識を引かれて口を開いた。
「……亥月」
サエラが一言呼号すると、亥月は一瞬瞼を力ませ、寝起きにしては強い視線を薄暗い空気へ露にした。
「お前は誰だ?」
「……俺に関心なんかねぇんだろ?」
質問に質問で返し、亥月は寝返りを打ってサエラとは反対の方向へ顔を向けた。
「……お前は『教会』の人間なのだろう」
亥月は壁側を向いたまま何も返さない。
サエラは、昨夜自分が雄々しい首筋に二箇所つけた傷跡を目の当たりにして、俯いた。
「十字は『教会』の紋章……それくらいは私も知っている。妖魔の存在を煙たがり、何かにつけて魔女裁判や非道な弾圧を行う機関らしいが……お前はそこの一員なのだろう」
亥月は、矢庭に起き上がった。
床に脱ぎ捨てていた衣服を掴むと大股でサエラの部屋を出て行く。
残された主は、自分も服を纏いガウンを羽織って暗幕に閉ざされた通路へ出た。
厨房に出向くと、昨日漆黒の召使いが調達してきた食糧を亥月が義務的に口内へと放り込んでいる最中であった。
「こんなに有能な召使いは珍しいぜ」
クロスが光る銀の刃で干し肉を器用に裂きながら、亥月は出入り口に立ったサエラに言う。
「だけど、取り戻した方がいい。影は存在の証明みたいなもんだろ」
「……影を添わせる太陽の元で私は生きられない」
今頃乱れたベッドを整然としたものに設えようとしている黒き分身の様子を思い浮かべて、サエラは答えた。
亥月は肩を竦めて赤ワインを煽る。
か細いグラスの中でその液体は大いに揺れた。
「太陽の光とはどのような感触なのだろう?」
亥月は、隣の椅子に腰を下ろしたサエラの切実なる問いかけに低い笑い声を立てた。
「聞いてどうする?」
それで何かが変わるか?
聞いたところで何も変わりやしないだろ?
それなら無知でいた方がマシだ。
「変な挫折感や徒労感を背負い込んで絶望したくない」
「それでも私は知りたい」
太陽の元で生きるお前が何者なのかを。
一体、私に何を与えようとしているのかを……。
「なら、あんたが先だ」
亥月は斜め下に視線を縫いつけたまま、思いも寄らぬ切り返しに困惑しているサエラに提案した。
「俺があんたに聞こう。そして答えろ。そしたら俺も聞かせてやるよ、下らないこれまでの過去を」
「……過去」
サエラの脳裏に蘇ったのは美しく微笑む妖魔の姿だった。
生まれて初めて口にした血の持ち主であり、この上なくいとおしかった存在の……。
「かつてこの世で最も大事な者を私は裏切った」
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