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AWAKEN EYES-10
「妖魔だ!」
けたたましい声が上がった。
サエラは物々しい人垣の隙間を探し当てるや否やそこを突破し、己を捕らえようとするいくつもの腕を掻い潜って、その辺一帯を取り囲む猛火に照らしつけられた亥月の姿を見つけた。
「亥月」
彼は大木の根元に背中を寄りかからせて地べたに座り込んでいた。
乱れた髪が額に落ち、血と共にへばりついている。
腹部には蠹毒への制裁として神々しい短剣が突き立っており、止め処ない出血と死への旅路を促していた。
サエラは幾許もない亥月の余命を一目で悟った。
「あれが例の吸血鬼か、確かに美しい成りをしているな」
「選ばれし妖魔かもしれぬ」
「殺さなければ、早く……」
一台の馬車から降りてきた黒装束のガスマスク達が轟然と燃え盛る炎のそばで囁き合う。
各々の胸に光るクロスは橙に光り輝いて、その威厳を薄闇に知らしめているかのようだ。
正に驕れる聖職者の証に相応しい様と成り果てていた。
そんな彼等に駆使され続けてきた彼の者の命が哀れにも消え果てようとしている。
「美しくも穢れた妖魔よ、彼奴を助けにきたのか?」
瀕死の亥月を見、思わず足を止めたサエラの前に槍を持った歩兵達が一斉に立ちはだかる中、黒装束の一人がくぐもった声で話を始めた。
「彼奴は亥の刻に拾われた妖魔と人との合いの子。おぞましい出生に似合った戦闘能力をすぐさま身につけ、幼い頃から無表情で殺戮をこなすような輩。やはり彼奴は呪われていた」
自分自身に纏わる語りを耳にし、生と死の境界線上で足元をふらつかせていた亥月がこちら側によろめいて、垂れていた頭を持ち上げた。
サエラは死臭が蔓延する戦場の慟哭を受け流し亥月の元へと足を進める。
「よい、行かせろ」と、話をしていた黒装束が上衣をはためかせて指図する。
すると歩兵達は忠実に横へと退いてサエラを先に通した。
「似合いの二人よ……共に地獄の業火に焼かれるがいい」
火をも恐れぬ百戦錬磨の馬達が白い息を噴き散らす。
サエラは昂揚した人間達が発する殺気を黙殺し、かろうじて弱々しく刻まれるたった一人の鼓動に感覚を傾け、傷ついた彼を視界の中心に据えて目指すべきところへ真っ直ぐに近づいていく。
「……どうしたんだよ」
自分の隣に跪いたサエラに向けて、亥月は力なく言った。
「駄目だ……ここにいたら……」
咳き込んだ亥月の下顎に血が飛ぶ。
彼の血のみならず、斃れた者達の流す血肉が濃厚な香りを四方に放っている。
「……喋るな、亥月」
サエラは本能に左右されず、我を失わず、亥月だけを見つめて静かに言った。
「お前に言いたかった」
黒装束の合図を受けて重装備した武装兵の一人が剣を抜く。
他の者達も次々に剣を抜いて縦に構える。
「日が……昇るぞ、早くーー」
サエラは亥月に口づけた。
その身に覆い被さり、両腕で彼を包み込んですべての敵から守るように。
「お前は虚の闇から私を救い出してくれた」
鎧を勇ましく音立たせて武装兵が前進した。
黒装束の者達はガスマスクの内で満足げな笑みを浮かべて十字を切り、分厚い祈祷書を抱きしめて勝利の祈りを唱える。
「我が身をお前に捧げよう、愛するお前に……亥月」
二人に迫った武装兵の剣が宙に高々と掲げられる。
サエラは微笑んで瞼を閉ざす。
亥月の双眸から血塗られた頬へ一筋の涙が落ちた。
そして聖なる破滅は舞い降りた。
上空で風が遠吠えを上げた。
掲げられた剣は空中で静止し、兵達は道化じみた格好で慄然と立ち竦む。
怯えた馬達は盛んに嘶いて主人を振り落とすとその場から一斉に走り去っていった。
「……消えろ……」
一声、亥月が呟いた。
その刹那、鋭い剣は見る間に砂と化し、塵芥となって、一陣の風に攫われ掻き消えた。
それは人間も同じであった。
断末魔を上げるひと時も齎されずに兵達は砂の山となり、崩れ落ちる。
後方に待機していた面々もその運命から逃れられず、鷲掴みにされて、瞬時に砂と変わりことごとく消え去っていった。
目を開いたサエラは亥月を見下ろし、燃え尽きかけていた命が完全に復活している事を知る。
「……亥月」
「何事だ、何が起こったというのだ!?」
黒装束の者達は後退りした。
頭上で逆巻く炎に照らし出された一同のうろたえようは滑稽極まりない。
敵から守ってくれるはずの兵は砂塵となって散り、移動手段である馬車までも見失って、彼等の手元には一冊の本と首飾りしか残っていなかった。
確保されていたはずの安全は今、ものの見事に失われたのだ。
「ま、まさか半妖魔の彼奴が……?」
その疑問符は彼等が黄泉の国へと携える唯一の餞となった。
咆哮を轟かせて風が走る。
逃げ惑う彼等を追い越して、追い越された彼等は砂と消え、炎に呑まれた森一帯を薙ぎ倒す勢いで荒々しく走り抜けた。
黒く干乾びていた木々が風を受け止める。
猛っていた炎が剥がされて、砂の変わりに、元よりも鮮やかで清らかな緑がそこに色づいていく。
「これは……」
サエラは亥月に手をとられて立ち上がり、よろめきそうになるのを助けてもらいながら、戻ってきた風が空高くへ駆け上っていくのを見送った。
早天の雲間が射抜かれて天上に衝撃が起こる。
さらにその上を目指すかのように、波動にも似た炎より猛々しい風は空気を荒立たせて上昇し、地上から遥か遠くへと旅立っていった。
「あんたと一緒に生きたいと思った」
サエラは亥月を仰ぎ見た。
溢れ出ていた血は先程の強風で吹き飛んでおり、褐色の肌に死の影を彷彿とさせるものはどこにも見当たらない。
突き刺さっていた短剣も跡形なく消え失せていた。
「お前が選ばれし妖魔なのか?」
「さぁな……自分でもわからない」
風に巻き込まれて空高くへ立ち上っていた無数の葉が地上へと舞い戻ってくる。
亥月は俄かに白んできている東の方角に目をやった。
「夜が明けるな」
「ああ、そうだな……もうどこへも逃げられない」
サエラが微かに笑う。
亥月はそんな彼を抱き寄せ、強く強く、抱擁した。
「最初は血に狂うあんたに見惚れた、だけど、でも今は。俺の目の前にいてくれるだけでいい」
「……」
「行き着いた先は奈落じゃない。俺は、とっくの昔にそこに落ちていた……今、やっと、抜け出す事ができたんだ」
皮膚を打つ確かな鼓動を聞いたサエラは亥月の胸にそっともたれかかった。
起こり得るはずのない運命に感情が波打っていた。
彼に触れている肌は嬉々としてその体温を感じ取っている。
これが奇跡というものなのだろうかと、サエラはふとそう思い、微笑みを浮かべたまま亥月に言った。
「お前の腕の中で灰になるのも悪くない、亥月」
東の彼方に緩やかに連なる深緑の稜線が霞み始める。
すでに涙を流していた彼の者は泣くのを拒み、かけがえのない存在を守り通すため、その双眸に力を込めた。
「もし俺が本当に選ばれし妖魔ならまたあんたを救えるはずだ……それに、あんたは俺の血を飲んだ」
両腕の中で息づく冷たい熱に永遠の誓いを立て、今こそ、選ばれし者は服従すべき宿命に刃向う。
「俺と自分の血を信じろ、サエラ」
地上に敷き詰められていた夜が途切れ、太陽が昇る。
混沌としていた森に穏やかで温かな光が満ちていく。
サエラは亥月の両腕にただ身を任せた……。
凛然たる毛並みを持した獣達が駆けていく。
枝葉越しに差し込む柔らかな午後の日差しを浴びて、銀色の肢体はしなり、大地を蹴って悠々と風を切る。
古より森に住む銀狼の群れであった。
群れの中には、真っ白な毛色の銀狼も見受けられた。
まだ幼い仔の特徴であり、成獣となる時その色は純白から銀へと変わって自ら狩りなどを行うようになる。
一頭、群れから逸れた銀狼がいた。
若干老いたその銀狼は己に来たした限界を知り、走るのをやめ、群れから離れる決意をしたようだ。
右の後ろ脚を引き摺る癖があるその銀狼は黒水晶の瞳をツとある方向に向けた。
懐かしい匂いがする。
遠い昔に嗅いだ、忘れられないものの匂いだ。
銀狼は、一歩一歩を踏み締めるようにして前に進んだ。
すでに遠くへ去ってしまった仲間達の無事を祈り、この先に待つ再会に胸躍らせながら。
黒い鉄柵があった。
頭を押しつけて自分が入り込める余裕をつくり、するりと柵の内側へ進む。
蔦の絡まった古めかしい館が聳えていて、玄関前にはガーデンセットが置かれている。
椅子の一つにあの人は座っていた。
太陽の恩恵を一身に授かって、しなやかな背を曲げ、麗らかな昼下がりの午睡にまどろんでいる。
草叢に落ちた影までも休息を得ているような、安らぎに満たされた美しい光景だった。
銀狼は静かに眠る懐かしい人の元へと辿り着いた。
「もうじき起きる」
向かい側に座っていた彼の者が、卓に頬杖を突き、銀狼に声をかけてきた。
「ああ……お前、あの時の銀狼か。今までずっと走り続けていたんだな」
絶対なる力を感じるのと同時に、すべてを預けてもいいと思える程の包容力が伝わってくる。
急に一世紀分の疲れを実感した銀狼は懐かしい人の足元で蹲った。
「そうだな、休むといい。喜ぶだろうな、サエラも」
彼の者の声に重ねられた労わり。
懐かしい人の寝息。
心の底から安堵した銀狼もひと時の眠りにつこうと目を閉じた。
まるで母なる瑠璃色の海に還ったような心地のよいぬくもりに包まれて。
「おやすみ」
束の間の眠りでも愛しい人の目覚めを待ち焦がれながら、彼の者は笑い、どこよりも青く深い樹海の中心でそう囁いた。
end
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