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鬼も目覚める丑三つ時-2

その女は憎悪の涙を流しながら打っていた。 愛していた男に裏切られ、捨てられて、燃え盛る愛の代わりにやってきた激しい恨みに溺れながら、打っていた。 己の手で拵えた藁人形に五寸釘を幾度となく無心に打っていた。 「おやめなさい」 激情で我を忘れていた女の耳に、不意に、その声は届いた。 我に返った女は思わず槌を取り落とし、振り返って、その者の姿を目の当たりにする。 笠を目深に被った、袈裟を着た僧らしき人物が長い数珠を持して木立の最中に立っていた。 「……あ、お、お坊様」 女は竦み上がった。突然現れた僧に対してではない。 手を血で汚す程釘を打っていた自分の行いに青ざめて、末恐ろしく思い、その場にへたり込みそうになった。 僧はすかさず女の腕をとり、大木に寄りかからせて、笠を微かに持ち上げた。 「……手遅れでしたか」 霧の立ち込める雑木林の奥を見据え、年若い僧は数珠をきつく握り締めた。 闇に黒ずんだ川の流れを眺めているのは一人の町人だった。 その眼は悲しみに濡れ、絶望に打ちひしがれていた。 ずっと、町人はこうして川を見続けていた。 彼は昔に妻を亡くし、妻によく似た最愛の息子と共に最近まで暮らしていた。 だがしかし、運命は無情にも男から最愛の一人息子まで奪っていったのだ。 町人の息子はこの川で溺れ死んだ。 つい昨日の事である。 町人は何もかもが信じられなくなり、ただ、今日一日中川を見続けていた。 「……」 ふと、水の撥ねる音がした。 町人は見えぬ川底に注いでいた視線を何気なく音のした方へやった。 何やら川の中で蠢くものがある。 大きいのか小さいのかわからないが、町人には生あるものの動きであるように見えた。 まさか、死んだ息子が。 狂いかけていた町人は目を見開かせ、橋の欄干から大きく身を乗り出そうとした。 が、突然。 欄干に突いた手のそばに一本の矢が突き立った。 驚いた町人は堪えきれず橋に尻餅をつく。 美しい白羽の矢であり、今日初めて川以外のものを視界に捉えた男はそれに釘付けとなった。 「よく御覧なさい」 不意に聞こえたその声に町人は仰天して橋の袂を見やった。 女が一人、そこに佇んでいた。 黒い着物を着込み、女には不似合いな弓を勇ましく番えている。 自分が打たれるのではと懸念した町人であったが、よく目を凝らすと、女は川の方へと矢先を向けていた。 「正気となりなさい。あれは、人でなし、闇に属す忌まわしきもの。見極めなさい」 「殺すつもりなんてなかったんだ……ッ」 色町から足早に去っていく若者の息遣いが寂然とした静けさを却って際立たせる。 「ただ、愛しい人を誰にも渡したくなかった、それだけなのに……!」 つい先刻、豊満な肉体を短刀で突き刺した感触が手の内に蘇り、若者はぞっとしてつい立ち止まった。 闇の中に仄かに香るは血の匂い。 醜悪なる残り香に若者は口元を押さえた。 「……ああ、何て事をしてしまったんだろう」 一時の感情の高ぶりによって犯してしまった己の過ちに若者は恐れ戦いた。 忽ち、全身が震え出す。 今やっと、自分がとんでもない事を仕出かしたと頭で理解した彼は、まだしばらくそこから動き出せそうになかった。 「血の匂いがするねぇ」 が、不意に背後で聞こえた声に若者は度肝を抜かれ、その場から飛び退いた。 「お前さん、人を殺したね?」 小柄な男が扇を片手に突っ立っている。 頭の天辺で髪を結い上げ、歌舞伎者が着るような派手な色合いの上衣を肩に羽織っており、遊び人じみた風情であった。 片方の目には刃傷跡が走っている。 常に閉ざされているところを見ると、どうにも潰されているようだ。 「白粉だけならまだしも、血の匂いたぁ、剣呑だねぇ」 「う……」 「あんたの血の匂いを辿って追っかけてくるのがいるよ」 意味深な台詞に若者は顔を強張らせた。 自分が殺したはずの太夫が死にきれずにやってくるのではと、目元を引きつらせたが、更なる恐怖を招く言葉を男がさらりと零したので凍りついた。 「怒った女よりも怖いモンがね」

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