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徒然時々恋模様のち…-13
待ち合わせ場所に遅れてやってきた俺を物静かな笑顔で迎え、伊東家の三男坊、叔父の史孝 さんは耳にタコができるくらい聞き慣れた台詞を口にした。
「はぁ、そうですか」
「この間の健康診断の結果はどうだったの」
「特に異常なし、です」
「そう。よかった。じゃあお祝いに中華を食べよう。その前に服を変えようか。それ、皺だらけだから」
舌を噛みそうな名前の海外ブランド店で見立てられたスーツに着替えた。
前回、健康診断の後に買ってもらった服を紙袋に入れてもらい、宵に入りかけの明るい街中を移動する。
俺と史孝さんの歩調は周りと比べ実にのんびりとしたものだった。
「また増えましたね、白髪」
色白で狐顔の史孝さんは頷いた。
ロマンスグレーと言う年齢にはまだ達しておらず、若白髪と言える年代でもない彼は堅苦しい報道番組のニュースキャスターにも匹敵する滑らかで落ち着いた声をしていた。
絵本などを枕元で読まれようものなら王子様が姫君を救い出す前に熟睡してしまうだろう。
冬枯れの野に容易く溶け込んでしまえそうな雰囲気を纏うものの、実際は身を潜め狙った獲物は的確に仕留める性分の持ち主だった。
「元気がない」
ホテルの中華料理店に入って個室の席に着く。
史孝さんは熱々のおしぼりで手を拭いていた。
俺は漢字だらけのメニューを見ながら適当に相槌を打つ。
「そうですかね」
「失恋でもしたのかな」
「はぁ。まぁ、その通りですけど」
「やっぱり。育生君を振るなんて贅沢な人だ。どんな人?」
「俺、炒飯食べたいです」
「牛肉入り? 海老入り? どんな人?」
しつこい史孝さんに掻い摘んで話すつもりで俺は滋君について話を始めた。
「俺より背が低いです。目が可愛くて、子供みたいな目で、でも無精髭が似合っていて」
「うん」
「音楽が大好きで、いつかレコードのお店を開くのが夢で。友達に松尾っていう変な奴がいて、面白おかしい奴で、この間彼と一緒にそいつの誕生日をお祝いしてあげました。彼はとても優しくて、階段で酔い潰れていた俺を助けてくれました」
「下戸の育生君が酔い潰れていたの?」
「起きた俺におにぎりと水をくれました。
いろんな音楽を聞かせてくれて、俺がゲイだって知っているのに、普通に接してくれて。
変な気遣い全くないし。
お香のいい匂いがいつもしていて、ずっと前から隣にいたみたいな安心感があって、滋君は。
一緒にいられる時間がすごく大事で。
これから先も一緒にいられたらなぁって……」
俺は言葉を切った。
いつの間に零れた涙が鼻筋を伝っていて、冷たかった。
「君はいつも自分の涙に後々気づくね」
目をやれば史孝さんは幼い頃から見慣れた狐の顔で笑っていた。
のんびりした食事が終わると史孝さんはタクシーで途中まで送ってくれた。
「少し歩こうかな」
途中からはタクシーを降りて歩いてアパートへ一緒に向かった。
雑多な夜道を緩やかに進む。
隅々まで磨かれた革靴がコツコツと優しい足音を伴っていた。
夜にラジオで聞くピアノソナタみたいだった。
そういえばこの人が弾くのをお屋敷で聞いていたなぁ。
確か娘にも習わせているんだっけ。
俺を無理矢理連弾に巻き込んだりしたし、家族にも無理強いしていないといいけどね、この人。
アパート前まで送ってもらうのは気が引けて俺は立ち止まった。
裏路地に入る手前の、シャッターが下ろされた商店街の端で史孝さんと向かい合った。
「今日はごちそうさまでした。服も、いつもありがとうございます」
史孝さんは狐の笑みを浮かべていた。
昔、地元の秋祭りで買った狐のお面が当時のお気に入りで、彼はそれをつけてよく悪戯の同衾に耽っていた。
いつだってお面を外してもあまり違和感のない笑い顔だった。
よく「コンコン」とふざけて鳴いていたものだ。
小学校にも入学していなかった俺に触れてきた、高校生の色魔。
それに甘んじ続けた俺は何だろう。
ど淫乱か?
今は悪性の色情もすっかり抜けて専ら清い茶飲み友達の関係にあるんだけどね。
「髪が伸びたね」
俺より少し上背のある史孝さんは感慨深げにこちらを見下ろしていた。
一ヶ月前にも同じ事を言っていたぞ、この人。
「フミさんも白くなりましたね」
あ、俺も再会頭と同じ事言ってる。
十年後も同じ会話の繰り返しで、それにさえ気づかないで同じネタで笑っているかも。
怖いくらい簡単に想像つくなぁ。
俺は冬枯れの野を思い出させる史孝さんの髪に手を伸ばした。
「雪が積もってるみたい」
「ふふふ」
「帰り、気をつけて」
俺はそれだけ言ってその場を離れた。
別れの挨拶をおざなりにしたのは、ちょっと気恥ずかしかったから。
もう見透かされたくなかった。
泣くつもりなんてまるでなかったのに。
本当食えない人だよ、あのお稲荷さんは。
アパートが見えてくると胸が重たくなった。
だけど足取りは変えないで進んだ。
滋君は今、部屋にいるかな?
仕事に行く前で仮眠中かな。
カップラーメンができあがるのを待っている最中だろうか。
レコードに針を落としている?
雑誌のページを捲っている?
ああ、もう半ストーカーだよな、こんなの。
俺、清くいられない。
考えちゃうよ。
物欲しくなっちゃうよ。
何気ない会話とか。
視線とか。
あの温もりとか、さ。
俺はアパートの階段に足をかけた。
一段上る毎に疲労が増し、背中にでかい石をどんどん背負わされているような気分になった。
手摺りに掴まりたい。
でも掌に赤茶けた錆がつくのは、ブランコを漕いだ時みたいに鉄臭くなって嫌なんだよね……。
「育生さん」
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