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大鯉恋恋奇譚/私×病夫

※大鯉……怪異。巨大な鯉 その屋敷の庭の池には美しい緋鯉が泳いでいた。 鬱蒼と生い茂る常緑樹の涼しげな木陰、なみなみと水の張られた池には睡蓮も漂い、その下で悠々と水中を行き来している。 広い池にいる鯉はただ一匹だけ。 白い鱗が木洩れ日に凛とした光を纏う艶やかな姿かたち。 特に紅の斑紋が色鮮やかだ。 庭の探索に出、思わず立ち止まって見とれていたら屋敷の住人がやってきたので、私の方から声をかけた。 「実に美しい鯉だね」 長らく患っている彼の顔色は屋敷内にいると蒼白で不健康そのものだが、こうして日の下に出てくると、その不健康さもいくらかマシになって見えた。 隣にやってきた彼は静かに微笑んだ。 手を叩いたわけでもないのに、池の中の鯉がすぅっと近くにやってくる。 水面から顔を出して、ぱくぱく口を開き、まるで何事かを語りかけているようだ。 ただ単に餌がほしいだけなのだろうが。 「君によく懐いているようだ」 今日は調子がいいのか。 普段は痛みのために沈んでいる面持ちを自然と緩ませて、始終無言であるものの、ずっと微笑んでいる。 そんな良好な状態が続くよう、手にしていた上着をその細い肩にかけた。 涼風が緑に閉ざされた庭を吹きぬけていく。 静謐たる微笑は脆くも一瞬で崩れ去った。 おもむろに口元を掌で覆ったかと思うと、細く白い指先を、赤が濡らす。 咳をすればざくろ色した雫が飛散した。 「ああ、これはいけない」 喀血伴う咳を続ける彼の肩を抱き、屋敷へ戻ろうと、踵を返そうとした。 ふと視線がそれに吸い寄せられる。 喉奥から迸った血の行方に。 指の狭間を伝い、滴り、水面に一滴ずつ落ちていく。 池の中でぼやけるように、ふわりと、広がる。 そのぼんやりした赤い濁りが近くを泳いでいた鯉にすぅ、と吸い込まれていく。 光り輝く白い鱗がさらに鮮やかな紅を帯びる。 紅の斑紋が増えた鯉は、ぱくぱく、ぱくぱく、水面から再び顔を出し、咳をする彼にやはり何かを語りかける。 「……さぁ、家の中へ戻ろう」 世にも面妖な鯉を池に残して、頼りない肩を抱き寄せ、私は踵を返した。 病魔に肺を蝕まれた彼の余生はもう残り僅かだ。 いつ果ててもおかしくないという。 屋敷の中にいた、一昨年に彼と夫婦になった私の妹や女中が駆け寄ってきたので、かかりつけの医者を呼ぶよう伝え、縁側から寝間へと向かった。 君が天に召される日が来たら。 あの鯉を譲ってもらおう。 君の血で彩られた美しい水魚を。 「……ごめんなさい、(りょう)さん……」 抱き上げられた彼はざくろ色に濡れた唇でぽつりと囁く。 今、両腕の中にある覚束ない温もり。 ほんの一瞬だけ胸に閉じ込めてみた。 end

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