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世にも奇妙にランデブー-2
整然と立ち並ぶマンション。
付近一帯に広がる雑木林。
蝉時雨が一段と騒がしい中、マンションの一室にお父さんとお母さんと三人で暮らす悠 は汗をかきながら一人で探検していた。
一人で探検といっても、数メートル離れた先には買い物帰りのお母さんが他のお母さん達と日傘片手にお話している、道路に面した場所で近くにはコンビニもある。
雑木林の入り口、お母さんの目の届く所にちゃんと留まって悠は小探検を楽しんでいた。
「あ」
悠は生まれて初めてテレビ越しじゃなく直にそれを見つけた。
それは蛇だった。
漆黒の、太く長い、きめ細やかな鱗が美しい蛇だった。
蛇のすぐ先には小さなカエルがいた。
蛇に睨まれてすっかり怯えて固まっている。
蛇は落ち葉をかさかさ言わせてカエルに近づくと、鎌首擡げ、舌をちろりと出して。
口を開け鋭い歯牙を曝し、カエルを一呑みにしようと、
「やめて、ヘビさん」
ぴたりと蛇は空中で三角頭を停止させた。
まるで悠の言葉をちゃんと聞き取ったかのような反応だった。
金色の眼が幼い少年に向けられる。
悠は必死になって蛇に語りかける。
「食べないで、カエルさん、かわいそう」
ぴょんぴょん逃げていけばいいものをカエルはまだ頑なに凍りついている。
獲物に視線を戻した蛇は捕食対象とする弱肉へさらにぐっと近づいた。
「やめて、ヘビさん、ぼくのことたべていいから!」
そんなことがあった日の夜。
「約束を果たしてもらうために来た」
彼は悠が暮らすマンションの一室にやってきた。
血の気のない顔は一重の切れ長な眼と薄赤い唇でもって冴え冴えとした雰囲気を醸し出している。
鴉の濡れ羽色を髣髴とさせる漆黒の髪は耳元や首筋を僅かに覆っていた。
学生服を纏う長身の青年の言葉に、お風呂に入っていたお母さんの代わりに玄関へ出た悠のお父さんは厳しい表情で問いかけた。
「こんな時間帯に非常識な、貴方、なんですか? 警察呼びますよ」
お父さんの声は震えていた。
子供部屋のベッドで寝かかっていた悠はすっかり目が覚めて、薄闇に浸る床をひたひた横切るとドアを細く開け、お父さんの背中をこっそり眺めた。
「お前の息子が私の餌になると自ら言った、その約束を果たしてもらうために来た」
どうしよう。
あの人、あの黒いヘビなんだ。
ぼく、食べられちゃうのかな。
どうしよう、怖いよ、どうしよう。
お父さんがなんとかしてくれるかな。
「……警察を呼びます」と、お父さんは言い捨てるなり回れ右をした。
目が合いそうになった悠は慌ててドアを閉める。
すると。
「私のことを忘れてしまったの、崇文?」
たかふみ。
お父さんの名前だ。
どきどきする胸にぱちぱち瞬きしながらも、悠は、またそっとドアを細く開いた。
お父さんは、日高崇文は、背後から青年に抱きしめられていた。
崇文は息子の悠がこれまでに見たことのない表情を浮かべていた。
「あの神社の境内で交わした契りを忘れてしまったの?」
「……や、めてくれ……そんなわけが……これは夢だ」
「そう、これは夢、お前の元からお前の大事な息子が失われるという、悪い夢」
「やめろ……そんなこと」
「お前の息子が私と契約を交わした、私はやめないよ、崇文」
お前の息子をもらっていくよ。
青年の腕の中で崇文は首を左右に振った。
胸に絡みつく両腕をぎゅっと握り締め、項垂れていた頭を俄かに起こすと、すぐ背後にある一重の眼を苦しげに仰ぎ見た。
「……代わりに俺を食えばいい……」
青年は微笑した。
そのまま崇文に口づけた。
やっと手に入れた愛しい永遠なる生餌の感触に酔い痴れながら。
細く開かれたドアの隙間に覗く悠の片目に告げた。
「お前の父親をもらっていくよ」
そんなことがあった夏の夜の後。
長い年月が過ぎた、移り行く四季をいくつか経た、夏の逢魔が刻。
「悠」
あれからしばしば立ち寄る癖のついていた蜩の鳴く雑木林で悠は崇文と再会した。
すでに失踪宣告を受けた当人は行方を眩ましたあの夜の姿と何一つ変わっていなかった。
残業帰りでワイシャツにスラックスという格好も、裸足であることも。
「お父さん」
悠は父親の背を後少しで追い越しそうなまでに成長していた。
去年、第一志望の公立高校に受かり、視力が落ちたためにコンタクトレンズをするようになって、たった今、母親と新しい父親に了承をもらってコンビニアルバイトの面接を受けてきたばかりだった。
「ごめん、お父さん」
悠の中には延々と止まっていた時間があった。
歯車を失って前へ進まずに同じ場所で歪に震え続ける秒針のように。
悠の直向な眼差しの先で崇文は首を左右に振った。
前と同じ笑顔で、落ち葉をかさかさ言わせて、悠の正面へやってきた。
崇文は重ね合わせた両手を胸元に掲げていた。
「優しい悠はお父さんの一番の自慢だよ」
崇文がゆっくりと両手を翳す。
父親の意思を汲み取った息子はその下に両手を伸ばした。
崇文が悠にそっと大事そうに手渡したのはあのときの小さな小さなカエルだった。
その日、とある稲荷神社で夏祭りが開かれていた。
石灯篭のふわりとした幻想的な灯火、眩しい橙を帯びたたくさんの電球、暮れ行く空には鋭いくらいに細い三日月。
境内には毎年同じ顔触れの露店が数軒並び、地元の人々はささやかな祭事をのんびり楽しんでいた。
狐の面をつけた崇文は砂利道に下駄を突っかけてひどく懐かしい景色に心行くまで見蕩れた。
幼い頃の自分自身が父に連れられて露店の間を行き来する残像、儚い幻影を目で追った……。
「崇文」
今、自分を連れている彼に名を呼ばれて崇文は隣を見た。
着流しの彼は、冷たく美しく、微笑む。
俺のことを恋い焦がれる蛇。
体どころかこの心臓まで貴方に縛り上げられてしまった。
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