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狼と犬と狐-7
「わぁ」
早天、東の方角から上ったばかりの太陽。
朝日が厳かに地上を照らし始める。
まだ眠っていたディスを落ち葉のベッドに残して湖まで水を飲みにやってきた月は朝焼けを背景にして佇む狼を見つけた瞬間、目を奪われた。
青みがかった黒毛並み。
黒狼よりも長めの毛足。
朝の日差しに艶めいて、冷たいながらも心地いい風に緩やかに靡いている。
かつて黒狼の群れを率いていたピアスと同じくらい大きな狼だった。
なおかつオラオラなピアスと比べ、しなやかさに富み、どことなく品がある。
暮れていく夕方よりも清々しい朝焼けの方を向いていたその狼は、耳をピンと立て、ぽんやり見惚れていた月の方を優雅に見やった。
「おはよう。素敵な朝焼け、貴方も見に来たのかしら」
真っ白犬の月は初めて見る毛艶に惚れ惚れしつつ、声をかけられたのが嬉しくて湖の畔にいた狼の元へ駆け寄った。
「はじめまして! おれね、月!」
好奇心旺盛よろしく月がまじまじと至近距離から見つめていたら、スリ、と狼は顔を寄せてご挨拶。
「アタシはロボ。はじめまして、月。貴方にとてもよく似合う綺麗な名前ね」
そこへ月の後を追ってディスがやってきた。
ボス以外にも月に馴れ馴れしい奴がいやがるのかと、ムスッとした顔つきになった若雄黒狼。
しかし接近してわかったその青みがかかった毛並みに、もしや、と朝っぱらから驚かされた。
「あ、ディス、おはよー!」
「……あんた、蒼狼 か?」
打ち解けたはずの魚を呑み込みそうな勢いで水をガブ飲みしていた月、元気いっぱい声をかければディスもディスで隣の狼に釘付けになっていて、返事なし。
自分のことは棚に上げて月はちょっとだけむっとした。
「ええ、そうよ。黒狼のおぼっちゃん」
「お、おぼっちゃん言うな、俺はディスだッ」
「ディス、ここ、寝癖ついてる!」
月に横っ面をべろんべろんされてディスは明らかに照れた。
「や、やめろバカ、自分で直すから舐めんじゃねぇ」
ロボと名乗った狼を明らかに気にして月を突き飛ばそうとしている。
初々しい若い二匹にロボは微笑んだ。
そこへ。
三匹目の狼が現れた。
「ディス……お前は群れに戻らずに余所者の狼といたのか?」
ディスの兄のリコだ。
片目にアイパッチをつけた隻眼の黒狼は和やかだった朝の空気を断ち切るように険しい眼差しのまま、燦々と輝き始めた湖の畔へやってきた。
「これから狩りに行く、お前の脚が必要だ」
弟にそう告げてリコはロボに目をやった。
「群れをつくらず、ルールに囚われず、常に単独行動。一つの土地に根付かない流浪の蒼狼、か」
「なにそれ。ロマンチック」
「……」
「ただ単に協調性のないマイペースな気分屋ってだけよ?」
睨む一歩手前の視線を投げつけてくるリコにロボは涼しげに笑う。
「でも、そうね、テリトリーに勝手にお邪魔したのはマナー違反だったわね」
「そうだな」
「挨拶はしたつもりなんだけど」
涼しげな笑みが添えられたロボの一言にリコの片目は僅かに揺らいだ。
弟狼も気づかなかった、ほんの一瞬の動揺、だった。
「……来い、ディス」
いつからか翳りを纏うようになった片目を伏せ、弟狼に命じ、その場を離れようとしたリコの背中に。
「おれも狩り行きたい!」
何とも無邪気な月の我侭が突き刺さった。
歩みを止めたリコは振り返らずに返事をする。
「……お前がもし深手でも負おうものなら。ピアスに顔向けできない」
それだけ言うと森の中へ去って行った。
蒼狼のロボ(♂)は凛とした双眸で隻眼の黒狼を見送った……。
あの目が疎ましくてならない。
まるで血の色のようで。
否応なしに過去の記憶を呼び起こす。
忘れもしない、慈悲を知らない残酷な爪に片目を潰されたあの日、残されたこの目はおびただしい出血で悪夢の如く赤く閉ざされた。
『大丈夫だ、俺がいる、リコ』
死の恐怖に竦んでいた俺の元にピアスはやってきてくれた。
『死神の鎌なんざ噛み砕いてやる』
その力強い両腕で俺のことを抱いてくれた。
見渡す限り白銀の大地と毒々しい血の赤、その中心で、いつまでも俺のことを見守ってくれて……。
『仲間よりも守りたいものができちまったんだ』
「ッ……」
静まり返った夜の森が眼下に広がる断崖絶壁に佇んでいたリコはアイパッチに覆われた片目を押さえた。
癖のない黒髪が夜風に弄ばれる。
憂いを孕んだ片目までも閉ざし、視界を闇に塗り潰し、古傷の痛みにじっと耐える。
「今夜は鳴かないの?」
気配を察していたので驚きはしなかった。
ヒト化していたリコが振り返れば蒼狼のロボが獣姿のまま茂みの狭間から四つ足で軽やかに姿を現した。
「こんばんは、淋しがり屋さん」
黒い服の裾を靡かせて佇むリコの傍らで立ち止まったロボ。
深い色味に富んだ青毛が月光に恐ろしく映えている。
元来、個体数の少ない希少種。
実物を目にする機会はそうそうない。
「痛そうね。大丈夫かしら」
「……もういい加減、放っておいてくれ」
今日一日ずっとロボの視線をどこからともなく感じていたリコは両手で顔を覆ったまま言い放った。
「俺をつけ回して何のつもりだ……不愉快だ」
「あら。フラれちゃったわね」
「……不快だ」
「何だか放っておけなくって、ついつい。ねぇ、その目って」
喰狼 にやられたそうね。
「……不愉快で不快な思いばかりさせるな、蒼狼というのは」
しなやかな五指の狭間からリコがそう呟けばロボは彼の足元に寄り添い、両手に隠された顔をスッと見上げた。
「喰狼に狙われて片目を失うだけで済んだ狼、アタシは他に知らない」
「……」
「アレに一度狙いをつけられたら。オモチャよりも手酷く弄ばれた末に、ね、肉を喰らわば骨まで」
黒狼、蒼狼、紅狼、それぞれ特性を持つ狼種族において最も凶暴なのが喰狼だった。
残忍な彼等は好き好んで同じ種の肉を捕食する。
大きさも強さも著しく抜きん出ており、他の狼種族の一番の天敵に値した。
「……俺は幸運だった。吹雪の中、群れとはぐれて、奴に襲われて……前のリーダーに救われた」
「そのリーダーって。とても強いのね」
目元を覆う掌の薄闇に視線を預けたままリコは呟いた。
「俺の光だった」
「貴方が呼んでいたのは彼だったのね」
まだ古傷の余韻に震えているリコを見下ろしてロボは言う。
月光を浴びて仄かに蒼く艶めくその髪は長く。
蒼々たる双眸は凛とした煌めきを宿していた。
「……ピアスは俺の全てだったんだ」
俺は何を言っているんだろう。
今朝出会ったばかりの流浪の蒼狼なんぞにどうしてこんなことを。
今まで誰にも明かしたことのない、胸の内に溜め続けてきた思いを、どうして。
「貴方の想い、よくわかるわ」
いつの間にヒト化していたロボを冷たくなった指の狭間からリコは見上げた。
「アタシも前に経験したことがあるの」
「……?」
「失恋したの」
「ッ、失恋なんかじゃ、ない」
「切ないわよねぇ。もっと素直になってればよかった。プライドなんか投げ捨てて泣きつけばよかった。後悔しない日なんて一日たりともないわぁ」
「だから違うッそんなモンじゃない!」
厭世的な翳りを片目に引き摺っていたはずのリコが頬を赤くし、ムキになって言い返す様にロボは頬を緩めた。
「貴方を探していたの」
風が吹く。
冬の訪れを予感させる兆しの風が。
「貴方の声に導かれてこの森へ来たの」
いつの間に古傷の痛みが失せていたリコは怖気を奮うくらい月明かりの似合うロボに真摯に見つめられた。
大地を駆け抜ける青馬のタテガミさながらに靡く長い髪。
見慣れない蒼い眼差しに思わず視線を束縛される。
「やっと会えた」
見晴らしの良すぎる断崖絶壁の上で隻眼の黒狼は孤高の蒼狼の腕に抱かれた。
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