野獣は元の人間の姿に戻ることができなかった。 真実の愛を得られずに、体どころか、その心まで。 自分の名前すら忘れて、一頭のケダモノと、成り果てた。 それに一番心を痛めたのが美女の父親だった。 野獣と美女を引き合わせたのは、野獣に「元の姿に戻ることができるかもしれない」と希望を抱かせたのは。 野獣が棲む城の庭に踏み込んでしまったこの自分自身だ。 「可哀想に……どうして愛してやらなかったんだい？」 「だって醜いんだもの」 鏡面の前でぱたぱたお化粧しながら美女は父親に答えた。 それからというもの夜な夜な森から不気味な咆哮が轟くようになり、村人は怯え、前にもまして森に寄りつかなくなった。 時には風に乗って恐ろしいケダモノの声が村人の家々にまで流れ着き、恐怖で眠れない夜を過ごすこともしばしば。 美女の父親もその一人だった。 しかし彼は恐怖するというより、ただただ、心を痛めるばかり。 ひとりぼっちのケダモノ。 まるで泣き声のようだ。 さみしくて誰かを呼んでいるのかもしれない。 そうして彼は決意した。 ケダモノの棲む城へ出向くことを。 光り輝いていた月が雲に隠れる。 「そんな……」 あんなにも綺麗に咲き誇っていたバラがすべて無残に枯れ果てた野獣の庭。 「君は……声も忘れてしまったのかい？」 幽鬼の住処さながらに不穏に佇む城を後ろにして、揺らめく、一つの大きな影。 『貴様ノ娘をここへ寄越セ』 ここで最初に出会ったとき、美女の父親を鋭き眼光で睨みつけ、服を纏い二本足で立っていた野獣はそう言い放った。 それが今は。 四つ足で地を踏みしめ、毛深い巨躯を夜風に晒し、唸り声を発するばかり。 立派な二つの角を生やし、人など簡単に切り裂けそうな頑丈な爪もつ四肢、牙、さも獰猛そうな気性を物語る尋常ならぬ迫力に漲った眼。 「私を……覚えているかい？　あの子の父親だよ？　この庭で出会い、君が大切にしていたバラを勝手に手折った――」 ケダモノの咆哮によって彼の台詞は中断された。 荒れ果てた庭を駆け、ケダモノは、悲しそうに立ち尽くしていた獲物にとびかかる。 そう。 美女の父親は死ぬつもりだった。 せめてもの償いとして、ケダモノの牙にかかり、命を捧げるつもりでいた。 ケダモノに成り果てた野獣も彼を食べるつもりで襲い掛かった、はず、だった。 「……いいんだよ、食べなさい……？」 『すまない、許してくれ、あまりにも美しいバラだったので、つい』 ケダモノの脳裏に蘇る記憶。 凛と咲くバラ達を背景にしてまっすぐこちらを見つめてくる男。 ……たいテいの人間ナラばコの姿を一目見ルなりニげ出したというノニ……。 記憶の中にはかつての野獣の心の声も紛れ込んでいた。 ……なんテ、俺のバラが似合う、美しイ人……。 『私はーーー、君の名前は……？』