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フライトナイト-4

「うわぁぁぁぁああ!」 その瞬間、僕は悪夢から覚醒したつもりだった。 四畳半の狭い安アパートで、近所迷惑紛いの絶叫を上げてしまったと思った。 「ぁあああぁあッ……あ?」 だが、そこは忌まわしい暗闇に満ちた広い空間だった。 机やイスがきちんと整列されていて、大きな黒板がある、教室としか言い様のない場所であった。 つまり僕はまだ悪夢の中にいるのだ。 「……うそだぁ」 「何が嘘だって?」 頭上から降り注いだ声。 上体を起こしていた僕は仰天して顔を上げた。 「気絶したり大声上げたり、忙しい奴だな」 男は僕の真後ろに立っていた。 さも面白そうな顔つきをして、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべて。 「今なぁ、マジでビビッたよ? 寝息立てて熟睡してたかと思ったら、いきなり起きやがって。しかも絶叫付き。あんなにビビッたのは久々かもな」 「……」 「おい、まだ睡眠中か?」 膝で背中を小突かれる。 僕はワケもわからずに男を見上げ続けた。 すこぶるイケメンだった。 シャープな細面で、一重でも十分に魅力的な双眸で、髪をきっちりセットしている。 首元ではストライプ柄のネクタイが締められていて……。 「う、うあぁぁぁああ!」 男はスーツを着ていた。 僕はもう一度絶叫せずにはいられなかった。 そうだ、この人じゃないか!  山田君の前にいたのは、こっちを見て笑ったのは! 「ひ、ひひ、人殺し!」 黒板下の教壇から跳ね上がって、カーテンが束ねられた教室の角へと命からがら退散した。 男は耳を塞いでしかめっ面をしている。 殺される、と僕は思った。 「あのなぁ、絶叫癖でもあるのか?」 よく見れば整列された机の一つに重たそうなバッグが乗っていた。 一見ただの旅行バッグだが、恐らくあの中には末恐ろしい殺人道具が詰め込まれているのだろう。 あの五寸釘の何倍もある、人間の血を大量に吸ってきた殺人道具が……! ホラー映画を頻繁に鑑賞しているため、余計な想像力がついてしまった僕は一層青ざめた。 「ああ、そういえばお前、見てたな」 あ、殺されるっ。 「だからそんなに怯えてんのか。そっか、お前が倒れたのはアレの前だから……ったく、面倒くせぇな」 男はうなじの辺りに手をやって億劫そうに眉根を寄せた。 スラリとした長身で、三つボタンのスリムスーツが嫌味なくらい様になっている。 そんな彼がこちらへ歩み寄ろうとしたので、僕は手元にあったカーテンを引っ掴んで喚いた。 「ひ、人殺し! 殺人鬼! みんなはっ……みんなをどうしたんだよ!」 「ん?」 「吉田君や鈴木さんや、中村さんは!?」 山田君は殺された。 じゃあ、他のみんなは?  いつまで経っても校内にやってこなかったみんなの行方は? まさか、みんなこの人に殺されーー。 「みんなは殺されて当然の輩なのさ」 男は一歩一歩を存分に噛み締めるように、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。 スラックスのポケットに両手を突っ込んで、今に口笛でも吹き出しそうな余裕の物腰で。 手近にある机を倒しまくって彼の道筋を塞ぎ、後方のドアから逃げ出せばいいものを、僕は未体験の悪寒に竦み上がって呼吸をするのもままならなかった。 彼が目の前にやってきた。 「怖い?」 笑んだ殺人鬼は僕の頭上に両手を突いて至近距離で顔を覗き込んできた。 彼の長い前髪が後数センチで額に届きそうだ。 外に広がる月明かりのおかげで、どんな顔立ちなのか、もっとはっきりわかった。 「う」 涼しげな睫毛が被さった深い色の瞳。 永い回廊が続いているのかと思わせる、荘厳で秀逸な光を秘めた眼。 視線が吸い寄せられて、何もかも忘れて、僕は彼の目に釘付けになった。 「怖いか?」 もう一度尋ねられて、僕の口は自然とその言葉を零した。 「……ううん」 「お前、名前は?」 「佐藤……」 「下は?」 「……寅彦……」 自分の名を告げると彼はぷっと吹き出した。 僕は他人のこういったリアクションにはすっかり慣れている。 小心者の自分自身にこの名前はそぐわないと常々感じていた。 もちろん他人も同じ、決まって笑いを噛み殺したような表情になるか、彼のようにあからさまに反応するかのどちらかだった。 「寅彦、ねぇ……ククク」 「祖父の名を継いで……ハイ」 「あ、そ。俺は右条っていうの」 「う、うじょお……?」 「左右の右に、条件の条。下の名前は忘れたんだよなぁ」 彼の目を見つめている内に、僕の全身に絡みついていた緊張の鎖は緩んで、バラバラと足元に落ちていった。 心の隅々にまで行き渡っていた恐怖の念も、いつの間にか和らいでいた。 「落ち着いたみたいだな」と、右条(うじょう)は僕から離れて矢鱈と小さい机に腰掛けた。 「アイツ等、寅彦の友達なんだ?」 僕は壁にもたれたまま頷いた。 「ふぅん。中村に鈴木、山田と、もう一人新顔がいたな。ま、いいや。でさ、全員の下の名前、言える?」 「え?」 「な・ま・え」 右条は長い足を組むと上体を前に倒して上目遣いに僕を見た。 彼の笑い方ははっきり言ってあまり好意的でない。 唇の左端を吊り上げて片頬だけを器用に歪める、不敵な笑い方だった。 「そうだな、後は学年とか出身地とか家庭環境とか。どう?」 どのメンバーも最初から苗字で呼び合っていたし、集まる場所は決まって大学の空き教室やファミレス、互いの家に行った経験は一度もない。 地元の話題が出てきた事も皆無だった。 「何も知らないだろ?」 「だから……何」 右条はちょっと驚いたような顔をした。 「べ、別にそんなの関係ない。みんな友達だから。みんな、とても優しくしてくれて……」 中村さんに勧誘されて僕は彼等の輪の中に入ろうと決意した。 このままじゃいけない。 いつか変わらなくちゃ。 毎夜四畳半の明かりを消す度に自分を責めていた。 延々と反芻される願望を実現に向かわせる、またとない機会だと思った。 みんなは僕を温かく迎えてくれた。 僕はそれが嬉しくて、みんなの好意に報いるために……。 「それが奴等の手なんだよなぁ」 僕は忙しなく瞬きした。 右条は例の調子でニヤニヤと笑っている。 月が隠れて白んでいた教室がおもむろに暗闇を纏った。 「群れに溶け込めない、すべての環境から浮ついた人間をあの手この手で誘き寄せる。突拍子もなく消え失せたって、周囲に何の波風も立たせない孤立無援の人間を」 「こ、孤立無援」 「正しくお前……みたいな?」 その時、悲しみや憤り、右条に対する「何でお前にそんな事言われなきゃいけないんだよ」的感情は僕の胸に湧いてこなかった。 先頭をきって浮かんできたものは、疑問符。 どうしてそんな事をする必要があるのか。 彼の言葉を疑うどころか関心を持ってしまい、僕は問いかけた。 「どうして……」 「餌だよ」 その回答は、冷えた暗闇が伸しかかる小学校中に響き渡ったような気がした。 「え、餌?」 僕は笑えなかった。 設定があまりにも整いすぎている。 人里離れた真夜中の小学校、気がつけば鳴り止んでいた虫の羽擦れ。 消えたメンバー、殺されたメンバー。 凶器に使われた恐るべき殺人道具の釘……。 一つだけ確実にわかった事がある。 この人は精神錯乱中の殺人鬼だ!!

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