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フライトナイト-3
満月が雲に覆われてグラウンドに闇が降りる。
砂地のほぼ中央に、さっきまで無人であったはずなのに、一つの人影が佇んでいた。
「……あれは……」
男の人だった。
隔たりがあるので顔まではわからない。
スーツ姿のようで肩から大きな荷物を背負っていた。
おぼろげな人影は、ゆっくりとこちらへ一歩踏み出した。
「佐藤君!」
いきなり肩を掴まれて、フリーズしていた視界が大きく揺れたかと思うと、中村さんの真剣な表情を写し出した。
「貴方、先に行って。私達もすぐに後を追うから」
「あ、あの人はーー」
「急いでくださいっ」
「早くしろ!」
校内に侵入していた面子までもが外へと流れ出て、一斉に捲し立ててきた。
僕は何が何だかわからなくて彼等の顔を見回した。
どの顔も、今までに見た事のない緊張感に漲っている。
とても悪ふざけと言える様子ではなかった。
「早く!」
中村さんの声に、行かなければ、と思った。
僕は縺れるような足取りで校舎へと駆け出した。
だけど僕はホラー映画好きの怖がりだ。
一人で真っ暗な小学校の中を突っ切る度胸など、微塵も持ち合わせていない。
よって、二階まで上ったものの、あまりの静寂と恐怖に射竦められて廊下の隅にて情けなく凍りついていた。
「こ、こ、怖いなぁ、やだなぁ」
意味もなく独り言を呟いてみる。
しかし重苦しい静寂がさらに痛感させられただけで何の励ましにもならなかった。
校内には誰もいないし中村さん達がやってくる気配もない。
闇に塗りたくられた窓ガラスや図書室の掲示板一面を飾る幼稚な似顔絵など、目に入るもの全部が不気味でならず、とうとう蹲って目を閉じた。
こんな真夜中の小学校で一人ぼっちで縮こまってるなんて。
僕に似合いすぎるシチュエーションじゃないか。
どうせ元から一人ぼっちなんだから、怖がる必要なんてないのに。
それでも怖がっちゃう僕って、余程のロクデナシなんだろうなぁ……うん。
自己嫌悪に陥るのが癖である僕は、しばし蹲ったまま過去の失態なんぞを懸命に思い返したりしていたが、やはり膨大な恐怖感は紛らわせなかった。
「やっぱり」
戻ろう。
もしかすると、何かあったのかもしれない。
みんながここに来れなくなる出来事が……。
あのスーツの男の人も気になる。
「よ、よし!」
自分に決断を下した後の行動は迅速で、よからぬ想像をしないよう、出鱈目な歌を口ずさみながら速やかに廊下を突き進んだ。
広々とした階段を降りればもう生徒用玄関だ。
気が動転していたので入ってきた場所は……覚えていない。
僕はズラリと並ぶ靴棚を注意深く見渡した。
壮絶な断末魔が重苦しい静寂を切り裂いたのは、そんな時だった。
「な、な、な」
何だ、今の。
悲鳴だ、人の悲鳴だった。
でも誰が?
いや、どうして、何で、何故に……。
悲鳴はどこからした?
僕は生唾を飲み込んで、数メートル先にある一つの靴棚を見つめた。
あそこだ、あそこの奥からした。
肌寒さに別の冷気が加わって鳥肌が立った。
指先は微かに震えて、両の目は瞬きを忘れ、歯が今にもガチガチ鳴り出しそうだった。
「しっかりしなきゃ」
僕はぎゅっと奥歯を噛み締めて、拳を握った。
頭も何度か左右に振って意識を鮮明にし、思いきり深呼吸した。
声は男だった。
誰かはわからない、でも吉田君か山田君かもしれない。
もしくは知らない人が苦しんでいるのかもしれない。
「はぁ……」
なるべく呼吸を潜めるため口元を手で覆い、廊下に根づきかけていた足を動かして、慎重に歩を進めた。
辺りは元の静けさを取り戻している。
目下目指す場所も、物音一つなくひっそりと静まり返っていた。
恐怖のあまり幻聴を耳にした。
うん、有り得ない事じゃない。
きっとそうだ、怯える頭の中が生んだ想像上の悲鳴なんだ。
それを現実で聞き取ったと思っちゃって……ば、馬鹿だなぁ、僕って。
僕は強張った笑い顔でその靴棚の向こうをひょいと覗いた。
そして、かつてない戦慄に心臓を鷲掴みにされた。
満月が照らすグラウンドを背景に二人の人間が立っていた。
一人は背中を、一人は扉に寄りかかって僕に正面を向けている。
後述の人間には十分すぎる程に見覚えがあった。
白々とした月光にどす黒い血が照らされている。
山田君の左胸に、あるべきはずのないものが突き刺さっていた。
五寸釘の二倍以上の長さもあろうかと思われる、大きな釘が。
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